初版が「革命」とか「プロレタリア」とか叫ばれていた時代の熱気がまだブスブスと残っていた頃の1977年。
岡島先生が30歳前半のまだ本名の岡島「治男」で、中国の「はだしの医者運動」の影響を受けた中国気功の紹介者の津村喬氏と「東洋体育道」なんてものを唱えてヨガと気功法の道場を構えて活動しつつ、野口整体の総本山、整体協会で貪るように勉強をしていた頃に整体とヨガについて書いた先生の初めての著作。
正直、晩年の著作を知っている弟子としては先生が学んだ整体とヨガの知識に当時の流行りの思想を絡めて書いただけの様に見えて、辞典的なものとして使うにはいいけど整体やヨガを通して「人そのもの」を勉強するにはかなり物足りなく感じる。
しかし岡島先生がこれを書いた背景や状況を知ると、ちょっと話が変わってくる。
書き上げた原稿を晴哉師に恐る恐る読んでもらい感想をいただいてほどなくして師が亡くなられたあと、
協会に動揺が走る中、プロになる為の講座に参加したかった先生は会長に就任した野口裕之師から「岡島さんは整体は合わない」と言われ断られたのを必死に頼み込み漸く参加できることになったり、
でも、今度は組織引き締めを図っていた協会から協会と自分の会とどちらかを選べと言われ整体協会を脱会することになったり、
落ち着いたら今度は自分の会の分裂騒ぎが起きたりと、
大きな運命の波に翻弄されることになる。
結局、整体協会で学ぶことが出来たのはほんの3年程。
そのわずか数年間の勉強でここまでのものを先生は書き上げてしまった。
そして、当時の野口整体は野口師の「治療を捨てる」宣言の後、
対外的な広報なども行わなかったこともあって秘密のベールに包まれた「幻の整体」と呼ばれるようになっていた。
そんな幻の技術や理論をもう一度世間に紹介したのがこの本なのだ。
岡島先生の亡くなられた後、先生の功績として「野口整体の紹介者」を挙げられる療術家の方がいる。
実際、先生がスリランカで津波に被災される少し前に訪ねた野口晴哉記念館で晴哉師の奥様、昭子師に会われ、
「整体を広めていただいて有り難う」
という言葉をいただいたこともある。
この書籍の出版以降、先生はヨガと整体の指導者として活躍し多くの人の幸せを手助けしていくことになる。
そんな記念碑的な書籍なのだ。