はまな調息堂

はまな調息堂ウェブログ:日々の堂主

調息整体指導室/はまな調息堂の堂主が、
からだを整えるということや日々の活動について
考えたことを綴ります

150112:

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ぼくは岡島瑞徳の「最後の弟子」だ。

本来、「最後の弟子」という立場は、 「師匠のもっとも研究され醸成された技術を受け継いだ人」でもある。

河野智聖長谷川浄潤を初め、関西では福島功桝田隆英、 そして現在の師匠である関西CS研究会代表水野靖と、何人も優秀な弟子を育てた中で最後がぼくというのもなんとも申し訳ないと思うし、お前が岡島先生の晩年の技術の精華を受け継いだ弟子か??と問われると「はい、そうです。」と言える自信もない。

東京の本部道場には一度しか行ったことがなく、向こうの会員も東京の会員さんの多くが併習していた習い事で知り合った数人しか面識がない上に、ある方をこれまた成り行きで毎月操法することになったことから、むこうでは

関西にいる謎の秘蔵っ子

扱いをされていたらしいが、逆に言えば岡島先生の膝下で修行を積んだ人や水野先生のように毎月東京まで通い指導員伝授会などに参加してた方と比べると、月一回教えを受けただけの人間で岡島先生の弟子を名乗っていいのか??と言われてしまう立場ではある。

そんなぼくが「最後の弟子」を名乗れることができるのには理由があるのだ。

毎月行われる関西の一日講習会は朝からなんコマか連続して講座が行われる。最後には幹部とその候補生対象の「研修会」があり普通の講座にはまだ出せない岡島先生の研究中の理論や高等講座にあたる内容を教えてくれていた。

一般の人対象ではないので勿論、参加するには資格がいる。
一つは「研修生」という幹部候補生になること。(これになると雑用をする代わりに各講座の受講料が割引された。)
二つ目は一年に一度行われる段位審査で「上級」以上になること。
三つ目は岡島先生が許可した人(一応は遠方会員となってはいたけど、大阪在住の人も呼ばれていた。)
となっていて諸般の事情からぼくが研修会に出るには上級になるしかなく、2001年に初めて受けて中級合格、後一回受ければ参加資格を得られるというところで白血病になってしまい、結局ぼくが会に復帰し段位審査を受けることができたのは2005年の年明けのことだった。

この2005年は中心感覚研究会の崩壊へと続く激震が始まった年で、年明け早々、会は最初の存亡の危機さらされていた。

そう、前年の2004年、関西支部の忘年会が終わって一週間後の12月26日、会主催のツアーでスリランカに行かれた岡島先生一行があのスマトラ沖地震に被災し参加者の半分が亡くなられ、岡島先生自身も津波にのみ込まれて九死に一生を得たという事件が起きたのだ。

年が明けても行方不明者がまだ見つかっておらず関西の指導員の先生方もマスコミ対応や本部との連絡に追われ、1月の岡島先生の講座も代講になり本部の段位審査は中止になってしまう。
そんな中、関西では指導員の先生方の温情で段位審査を開いてくれた。(ほぼぼくの為だけだったらしい。)

審査の日になぜか40度近い高熱を出しガタガタ震えながら受けることになったのだが、何度も水野先生や友人と練習し続けたかいもあり無事に上級に合格、研修会参加資格を手に入れる。
(水野先生から後年、「お前は勘違いしてる。上級なはずがない。初段をやっても良かったが飛びすぎるから準段位にしたんだ。」と言われたが、ぼくは準段位の免状を持ってない。)

2月、スリランカはまだまだ落ち着かないものの、岡島先生はようやく活動を再開し月末の関西の講座にも復帰。
実はこの月には元々岡島先生の特別講座が開かれる予定で、本部では大きな会場を借りて盛大に行われる予定だったのが、震災の影響から取り止めになりこれまた関西だけの開催になってしまった。

関西では特別講座のある月は土曜日に特別講座、日曜日に一日講座と二日続くものの、毎回沢山の人が受講し中崎町の広い貸しスペースが一杯になるのが常だった。
だが、今回は特別講座も一日講座も参加者が少なく、講座終了後に心斎橋のメキシコ料理店のエルチャロで行われた岡島先生を囲んでの懇親会もなんとも寂しいものになり、そして、その少ない参加者も早々に帰ってしまい、店内は早い時間で岡島先生と水野先生、ぼくの三人だけになった。

この時にぼくは岡島先生に、
岡島先生の弟子と名乗るにはどうなったら良いですか??
と聞いてみた。
寂しそうに見える岡島先生になんとかここにも先生を尊敬している人間がいると分かってもらいたい、ほんの少しでもそれが先生の励ましになれば。そんなことを思っての質問だった。

岡島先生は少し笑いながら、
野中も研修会に出るんだからさ、俺の弟子って名乗っていいよ。」
とやさしく言ってくれた。
そう、この時にぼくは先生の弟子になったのだ

スリランカの事件後、諸々の事情から会は揺れ続け、本部での段位審査も研修会も指導員伝授会もなくなり、結局、中心感覚研究会が解散するまで、再開することはなかった。 しかし関西では研修会は岡島先生が入院される直前の8月まで開かれ、わずか2年8ヶ月と短い間だったが参加することができた。
ただ、段位審査はあの年の関西が最後になった

そしてそれ以降、研修会に新しく参加する人はなく
かくして、ぼくは岡島瑞徳の「最後の弟子」になったのだ。