はまな調息堂

はまな調息堂ウェブログ:日々の堂主

調息整体指導室/はまな調息堂の堂主が、
からだを整えるということや日々の活動について
考えたことを綴ります

先日からとうとうここ大阪市阿倍野区松崎町にも寒波が到来。
連日、堂主人はお風呂の湯船から中々出て来られず難儀している。

それは一年ほど前になるだろうか??

バイト先の営業さんから

「新しい患者さんなんやけど、背骨のこの場所は何が悪い、この場所は何が悪いて、分かる先生をお願いしたい。て言うてはんねやけど、のんちゃん先生、行ってくれへんかなぁ??」

という不思議な依頼を請けた。

70代後半の女性で、右股関節が変形し今は両股関節に痛みがあり歩くのがままならず、横になっても側臥位は無理で仰臥位、うつ伏せにしかなれない。また、産まれた時に心室中隔欠損、数年後には腎盂炎を発病。現在は肝臓に結石もある。
という複雑なお体をされている。

そもそもバイト先は寝たきり高齢者を訪問し機能訓練(いわゆるリハビリ)をして生活の動作の向上を図ることが主な業務で、堂で行っているような不調を正していく業務は機能訓練にあまり意味がないごく限られた場合のみになる。
だから、バイト先のパンフレットや宣伝もそのような書き方をしているので、最初から治療をしてほしい方の依頼は介護事業所の紹介でない限り先ず来ないのだが、今回はその方からの直接の依頼で地域広報誌に出した広告をみて「ココだ!!」と思い問い合わせて下さったとのこと。

さらに言うと、どの椎骨に異常があるかで体のどこが悪いかを見抜くという技術は、カイロや整体などの特殊なものは別にして、手技よりも本来は鍼灸師の方が得意なのだけど、

「今まで近くの整体院や鍼灸院など色々と受けて来た経験でそのことは知っているが、以前、病院で、ある理学療法士さんからその先生しかできない技術をしてもらい治してもらって良かったので、鍼より手技の方を希望したい。」

と仰る上に、続けるかどうかは一度受けてからにしたいという。

ますますもって不思議である。

これは訪問してもすぐにお断りが来る完全に「地雷案件」だと思ったのだが、営業さんによると他の対応できそうな先生方はスケジュールが詰まっていてぼくが行くしかない状況らしく、とにかく通うことになってしまった。

初めての訪問の日、玄関のチャイムを鳴らし待っていると、出て来られたのは想像していたのとは正反対(試す患者さんは信頼を得るまで怖い雰囲気の方が多いのだ。)の声も雰囲気も朗らかな明るい方で、少し安心したのを覚えている。

初回は普通にバイト先で決められた通りのマッサージと運動療法を20分程行い終了。
お断りやろな~っと思っていたら、

「うん、これから『先生が』来て下さい。」

と、何故か嬉しいことに指名の許可が出て週2回で通うことになった。

最初の2ヶ月ぐらいは普通にマッサージと運動療法で対応しそれなりに結果が出ていたものの、2週間近い海外旅行に行かれてからは痛みがひどくなり、施術してもあまり変化がでなくなってしまった。

そこで悩みに悩んだ末、相談の上で調息整体の操法を行ってみたところ、ぼくは自信が全く無かったのだが、どうやら感触が良かったらしく、

「ぜひ、それを続けて欲しい。」

とのことで、それからは操法のみに切り替えて対応することになる。

更に2週間ほど経った頃だろうか??話の流れで患者さんが、

「先生はこういう人で、こういう性格やから・・・。」

と、普段はぼくが彼女に話しても見せてもいないことをすらすら話し出した上、

「私、見ただけで色々と分かるねん!!、最初に先生を見た時に分かっててん。いつか言ってあげなあかんな~って思ってたんよ~。」
「それに治療院のパンフレット見たときにここやと思って、ほんで先生みてこの人やわ~って。別の技術もってるんも最初から分かってたんよ~。」

と言うではないか!!。

ここでようやく、あの不思議な依頼に合点がいった。

彼女はぼくに整体を依頼するためにあんな注文をつけたのだ。

(ぼくは20年近く前に彼女のような方に出会わせてもらっていた関係上、疑うことなく、すんなり納得できた。)

とはいえ、そこから現在まで4ヶ月ほど操法をつづけているものの、初回と同じで自信が無いのは全く変わらず、いいのかなぁ??大丈夫かなぁ??と自問自答しながら行っている。
ただ、お体の方は全体の緊張感も抜け、痛みの訴えが少なくなって来たように思うからそれでいいかなぁ??・・・

と悩んでいたら、つい先日、半年ぶりに整形を受診された彼女から、お医者さんから、

左の股関節は何とも無し!!、右は・・・手術しなあかんねやろうけど、何故か歩けてるしなぁ・・・、痛みが酷くならんかったらええわぁ。

と言われ、次回の診察が一年後(今までは半年)になったことを教えていただき、

「先生、これからも頼みます~。」

と笑顔で仰っていただいた。

やっぱり、不思議なのである

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FB上で友人に当てて書いたコメントが読み返してみると良かったので、 ちょっと手を加えて載っけてみることにした。

現代人の多くが「動く」ということの難しさ、大切さ理解できていないように思う。

動ける体=健康。」

なんだけど、「動ける身体を作る」という概念が現代の日本人にはそもそも無い

鍛えるとかトレーニングというと

「筋肉をつける=エンジンを強化する。」

事ばかりで、

足回り(動きやすさ)を良くしたり
電気系統(感覚)を強化したり
操作性(思ったとおりに動けるか??)を高めたり

することはまずしないし、
そこに着目した方法論も一般的には見向きもされない。

エンジンをただ強くすると、感覚が鈍くなる。
筋肉ってのは鎧だから鎧に守られた中身は強くなれないからだ。

なので「健康」に対しての意識も低い人が多い。
薬やサプリメントを飲んで表に出てくる現象を押さえ込んでいれば「健康だとか勘違いしている人」がほとんどで、

病気に対しても表面の症状が薄くなれば治ったと思っている。

そんなものは健康でも治っても無いのだけど・・・

自分の身体への感覚を鋭くして動きを見つめなおしていく

身体の動かない部分=不調の部分

が感じやすくなってくる。

体と心は一つのもの」だから、「心の不調も感じやすく」なる。

これが感じられてくると、毎日を生きるのが楽になってくる。
ある程度の限界はあるけど解消する方法が見えてくるからだ。

そういうのが鈍くてもっと人生を輝かせることができるはずなのにできていない人を見ると、辛くなる。
ご縁があれば、ご縁を作る能力がもっとあれば少しは手助けできるのに。

大阪は阿倍野区松崎町の小さな堂で、ずっとこんなことを思っている。

ほんとに難しい話なのだ。

151123:

大阪は阿倍野区松崎町もすっかり秋、というか、そろそろ冬の訪れを感じる今日この頃、 8月頃に書きかけて途中で放棄していた文を、なんとか最後まで書きあげてみた。

はがきの名文コンクール

>「はがきの名文コンクール」のテーマは、一言(ひとこと)の願いです。
>はがきに、願い事を書いてください。

>20字以上200字以内の日本語の文章で。
>あなたの願い、家族のための願い、世界の人々のための願い、未来への願い・・・
>願い事はどんな内容でもいいのです。
>御所市にある一言主(ひとことぬし)神社の神様は、
>一言の願いであれば何でも叶えてくれると伝えられています。
>その神様にちなんで、1枚のはがきに1つの願いを。
>願い事がたくさんあるのであれば、何枚出してもかまいません。
さあ、あなたは何を願いますか?
(hpより引用)

御所市、一言主神社の近くにある郵便名柄館で8月10日まで受付られていた同コンクール。 郵便局に立ち寄った際にポスターをみかけ、「大賞:1名、100万円」に目がくらみ、投稿してみようか??なんて割と本気で考えてしまった。

「一言の願い」とは言え、200字まではいけるので結構長い文章でも受け付けてはくれるのだけど、困ったことに数日考えてみて、「願い」が思い浮かばない
もちろん、ぼくは聖人君主では無いので願いは沢山あるのだが、大賞どころか入選も無理そうな個人的な「煩悩」ばかりなのである。

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ただ、昔になにかそういうものを書いた覚えが有るな??と遠い記憶をさかのぼってみたら、「願い」というか「思い」というか、26歳の時に

遺書

を書いたことが有るのを思い出した。

もちろん正式なものではなく、手帳の裏に鉛筆書きで書いた「家族に伝えたかった思い」と自分の死後に残された遺物の処理を万一の時のことを考えてメモ書きにした、その程度のものだ。

02年の6月、ぼくは白い壁とやたら景色の良い窓に囲まれた病室のベットに横たわっていた。

その2ヶ月前の4月15日に前骨髄球性型急性白血病で地元の病院に入院。
思ったより闘病生活は楽で、周囲の心配をよそに本人は三食昼寝つき、素敵な女性(=看護師さんやスタッフさん)に相手をしてもらえるという毎日を、「ちょっと不便なホテル生活」とうそぶきかなり楽しんでいた。

異変があったのは恐らくその月の中旬、抗がん剤で骨髄幹細胞の動きが抑制され、副作用で白血球だけでなく赤血球、血小板も減少、貧血症状や出血傾向の増大が起き出した時のことだ。

少なくなった血小板を補う為に血小板輸血を行ったのだが、その血小板の付着物にぼくの免疫が過剰反応し、アナフィラキシーショック(=アレルギーが原因のショック)を引き起こした。

見舞いに来てくれていた母親に、

「ちょっと今日は痒みがきついわ~」

と言って看護師さんを呼び処置をしてもらっていたところ(輸血すると多少はアレルギー反応がでるらしい。)、突然、全身に麻疹のような発疹が浮き上がり、発狂するほどの凄まじい痒みが体の内側から湧き上がった瞬間、ぼくは意識を失いベットから転げ落ちた。(皆さんが作業をしやすい用に、ベット柵を外していたのが仇になった。)

そのまま床に転落して頭でも打てば血小板の足りないぼくは脳出血を起こして死ぬところだったのだが、たまたま抗アレルギー薬を点滴投与しようとベットの傍らに来ていた看護師さんが受け止めてくれてそのまま床までずり落ちたことで奇跡的にまったくの無傷で済んだのだ。
(意識が戻ったあと、可愛い看護師さんの胸の感触を何故か覚えていたのは、もてない男の悲しい性・・・。)

床に横たわったまま目を開けたぼくの視界に飛び込んで来たのは、ぼくを囲むように見ている主治医じゃない別の先生と数人の看護師さん達の顔。

何人かがかりですぐさまベットに担ぎ上げられたぼくは眠くて眠くて仕方がなかったのだけど、慌てて駆けつけ交代した主治医の先生に眠りそうになるたびに頬をペチペチと叩かれて、

「野中く~ん、起きてるか~、指、何本に見えるか言えるか~!!」

強制的に叩き起こされた。

後で看護師の姉から、それは

意識レベルが低下していてそのまま眠ってしまうと昏睡状態になる危険な状態」

だったのだと聞かされたのだが、当の本人は

「先生、勘弁してくれ、疲れたから寝かせてくれ~。」

と暢気に思っていた。

そのまましばらくして大丈夫なことを確認し先生もスタッフさんも去り母親も退出したのだが、酸素マスクをつけさせられたぼくは、

なんであのまま死なせてくれへんかったんやろう??、そのまま死ねたら楽やったのになぁ~。お陰で寿命が来るまでの数十年、また苦しまなあかんやん。。。」

と、しばらくぼやーっと思っていた。

そんな考えが自然と思い浮かぶぐらい死にゆく感覚が気持ちが良かったのだ。

そのまま30分ぐらい経っただろうか??
だんだんと意識がはっきりしだすと今度は言いようのない死への恐怖が現れてきて、自分が生きていることが嬉しくまた救ってくれた全ての存在に感謝をしたくなり、ボロボロと涙が溢れ出てきた。

あの時に感じた「死への憧れと生への感謝」の気持ちは、ずっとぼくの中にあって、「いつ死んでもいい」という感覚と「絶対、死にたくない」という感覚がぼくの中で矛盾なく同居している。

だから、

どうせ死ねへんからええやん。」と「あかんかったら死んだらええねん。」

という相反するものがぼくの人生における判断基準になってもいて、

生かしてもらってるだけで有り難い。」

とも自然に思うようにもなったりもして、結果、普通の人とは違う人生を歩むことになっている。

あの事件の直ぐ後のことだ、いつ死ぬか分からないと思ったぼくが遺書を書いたのは。

だからかも知れない、ぼくが「一言の願い」がまったく思い浮かばなかったのは。
あの時に書いた遺書以上のことは書けそうも無いのだ。

151122:

今年の冬は暖かいようで大阪は阿倍野区松崎町界隈の街路樹も12月になろうとしているのに、あまり色づいていない。

ぼくは6歳で始めた剣道を初めとして調息整体、習い事とずっと何かの技術を習得することに多くの時間を捧げてきた。
だけど、どれも一流と呼ばれるような存在に未だになれてはいない。

入門始めの頃は全てを捧げて没頭すれば簡単ではないが上の段階に普通に上がれるものだと思っていたし実際に捧げもした。そして捧げた時間の分だけ上達もした。
しかし一年も経つと同期で入門した仲間にじりじりと離されるようになった。

ぼくには

才能が無い

一言で言えばそうだったのかもしれない。

でも、一生を賭けようとしたものがそんな理由で上達できないのは納得できなかったし、やはり悔しくもあったので、

「もっと時間を捧げてみればいくら才能が無くても離されないんじゃないか??」

と考えて、二年目からはもっと捧げてみた。

そうしたら今度は自分が何をやっているのか「訳が分からなく」なり、どんどん離されていくことに益々焦り混乱をし、気がつけば三年目の始めに白血病を発病して入院。
それまでのお粗末ながらも費やした努力が吹き飛んでしまった。

入院中、周囲からは整体と習い事から離れ別の道を歩んでみたらどうかと強く進められた。
現代医学的には原因が不明な上「再発」の危険性がある病気なだけに、以前と同じような生活に戻って欲しくはなかったのだろう。

しかし本人はさらさら止めるつもりはなく(止めたところで他にやれることもなかった。)、入院中から体調の良い日は調息整体の勉強をしたり習い事の稽古をしたりして、発病からの2年後に復帰をした。

だけど復帰を果たして修行を再開したものの、困ったことに「訳が分からない。」ことは入院前と変わっていなかった。いや、積み上げてきたものが吹き飛んでいた分、前よりひどくなっていた。

十数年が過ぎた今、本質的な理解が全く出来ていないように感じる。
習い事は恩師の導きに従いただただ素直に稽古を重ねて、いつか理解できる日が来ることを信じるしかないから良いのだが、
調息整体の方は水野先生の講座を受け続け、懇切丁寧な解説と技術指導も受け続けてはいる。
その毎回の講座はとても面白く、生命の不思議さを感じさせてもくれる。

ただ、講座で習ったことを自分なりにどう整理自由に使いこなせるようにしていくか??
つまり、講座外の自習のやり方が致命的に分からず、どうすれば岡島、水野の両先生に追い付けるか分からない。

その為に同じところをずーっとグルグル回っているだけのような気がするのだ。

徒し事はさておきつ

皆さんは、ジョッシュ・ウェイツキンという人をご存知だろうか?? 映画、「ボビーフィッシャーを探して」の主人公である天才チェスプレーヤーの少年のモデルと言うと知っている人がいるかもしれない。

1976年、ぼくと同じ年にアメリカで生まれたこの人は、アメリカ出身の元世界チャンピオンにして天才チェスプレーヤー、ボビー・フィッシャーの再来といわれ、8歳のときに初めて世代別の全米チャンピオンになる。
その後は80年代~90年代に一線で活躍し続け未来の世界チャンピオンといわれ期待されるも、様々な葛藤から東洋哲学に傾倒し、98年に友人の勧めで訪れた太極拳の教室で鄭氏太極拳の創始者、鄭曼青氏の高弟、陳至誠氏に出会い、その太極拳に魅了されて入門。
20代前半で競技チェスからは引退し、太極拳の修行に没頭することになる。

その後、数年で推手競技(太極拳の技術で行う相撲と言えば分かりやすいか??)の全米チャンピオンになった後、04年には台湾で行われた推手の世界大会に2部門で優勝するという快挙を達成する。

そんな彼が大会の2年後に書いた、

習得の情熱

は、ジョッシュがチェスに出会ってから推手の世界チャンピオンになるまでの自伝であり、
また彼が二つの異なる分野で一流の競技者になるべくどのようにして学習し、どのようにして様々な問題を乗り越えたか??を詳しく明かした「技術習得の方法論」の解説書になっている。

・土台になる基本原理の技術を無意識に染み込むまで反復する。
・その技術を今度は実際の場面で使えるよう、小さく単純なものにしていく。

など、喉から手が出るぐらい知りたかった効率良く上達するためにやるべきことが惜しげもなく書いてあり、
また、

・起った事象を徹底的に分析し研究する。
・自在にゾーンに入るための方法

などといった、本番において結果を出すための方法論まで述べられている。

正直、この本を手に入れたときに、なんでもっと早く出会わなかったのだろう??出会っていればこんなに悩む必要もなく、無駄な時間を過ごすことはなかったのに・・・と嘆息してしまった。
(習い事に関していえば、修行体系と恩師の指導がそのままこの書籍の内容にあてはまり、なんのことはない、自分が各段階を疎かにして先に進もうとしていただけなことが露呈した。)

上達に悩む全ての表現者に、この本は多くの光を届けるであろうことを、ぼくは信じている。