はまな調息堂

はまな調息堂ウェブログ:日々の堂主

調息整体指導室/はまな調息堂の堂主が、
からだを整えるということや日々の活動について
考えたことを綴ります

関西CS研究会2017年10月~2018年3月の活動は会長、水野靖の諸般の事情により、 休会させていただきます。

なお、個人指導につきましては、はまな調息堂にて堂主人、野中基之が代診させていただきます。
ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします。

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とうとう平成29年も後少しとなり、阿倍野区松崎町界隈もクリスマスソングがちらほら聴こえてくるようになっている。

海に感謝する、空に感謝する、森に感謝する

ある沖縄のユタ(シャーマン)が琉球文化の信仰について語ったものだそうで、友人に教えてもらった言葉だ。

人智の及ばない何かに「感謝」をする。

という「信仰の本質」を言い表したこの言葉に出会って、ぼくは囚われていた色んなものから解放された。

調息整体の親流儀である野口整体の創始者、野口晴哉師は

・小さい頃、お寺の説法中にどこかで覚えた催眠術を聴衆にかけ、ゆらゆら揺らして遊んでいた。
・関東大震災の折に「三脈の法」を使って危難を避けた。
・その時に、腹痛で悩む人に手を当てたら治ってしまったことから、多くの人に手当てをした。

という元々不思議な子供で霊能者だった。

・人の生き死にが分かった。
・彼の操法を受けていた人が亡くなると、その人があちらの世界に旅立つ前に挨拶に来て、その後、訃報をしらせる電話が鳴る。
・神社に参拝し、道場を持つためのお金が欲しいとお願いしたら、帰りの参道の階段で古銭を拾い、以降、お金がどんどん入ってきた。

のように、彼のエピソードの中には彼が霊能者であることを示すものがいくつかある。
また彼は、

・「足止めの法」を始めとする験術を実現化できるだけの「法力」を持っていた。
・「滝伏せ」や「離れた弦楽器の弦」を鳴らすなどの気合術が高いレベルでできた。

など、霊能力だけでなく高名な霊術家のもとで修行し、出口王仁三郎を笑い飛ばし植芝盛平翁から跡を継いで欲しいと請われるぐらい高いレベルで異能の力を身につけた人でもあった。

そんな彼の創始した野口整体は目に見えないものを感じ、使いこなし、人智の及ばない力に謙虚に身を委ねて生きる思想と技術を説いている。
しかしながら、なぜか高い次元の存在である「神」については語られていない

野口整体をしたくて治療家の道に飛び込んだぼくは、駆け出しの頃、所属していた治療院で出会ったオーラヒーリングなどのスピリチュアル系にはまっていた先輩から、ハイアーセルフだのエーテル体だのアストラル体だの前世のカルマなど教えられ、野口整体ではどう扱うのか??と度々問われた。

また、身近な人間が新興宗教にはまり、会うたびにその素晴らしさを説かれ、入信を勧められもした。

治療と言うものがまだどういうものか分からず、整体を習い始めたばかりの当時のぼくにはそれらに答えたり反論できるだけの知識も経験も持っていなかった。
だけど、直感的に毎日の臨床の中で感じるなにかがその答えな気はしていたし、白血病の闘病中に感じたことがそこに繋がっていくんじゃないか??という気もしていた。

ただ、やはりあれだけの能力を持つ野口晴哉師がそれを語らないことが不思議ではあり、岡島先生に問うてみたものの

人が神を目指しても仕方がないでしょ??」

という当時のぼくでは分かるような分からないような、なんともピタッとこない答えだったのでずっとぼくの疑問になっていた。

それがひょっとして??という答えが浮かんできた。

バイトである寝たきり高齢者の方に対する訪問マッサージの患者さんで、その職場に入ってすぐに出会ってから10年のお付き合いになる頸椎損傷の女性の患者さんがいる。

出会った時はまだ60代の方である程度動けたのと、色々と紆余曲折があった結果、最初はマッサージと運動療法を行っていたのが数ヵ月後には整体操法を中心に行うようになった。
そんなある日のこと、

その日は自分の息がいつもより長く集中力があり、一連の操法の流れの中で手の引かれる処に手を当て目を瞑って愉気をしていたのだが、彼女と波が合っている感じがして、深い所にどんどん入っていく感覚があった

その内、彼女の中心の奥と自分の中心の奥に光り輝く場所があるのが見えてきた。

面白いのは、その輝きはぼくの手から出る光で照らしてやると強くなり、また、強くなった彼女の輝きが今度はぼくの中心の光を照らしぼくの輝きを強くしていくのが分かった。
こうしてお互いの輝きを強くしながら過ごしていると、やがてぼくの光と彼女の光が交差して一体になりぼくの体全体が光に包まれていった

光に包まれながらの愉気をしばらく続けた後、ゆっくりと目を開けて周囲を見渡してみると、視界に入るもの全てが輝いて見え、その輝きがまたぼくを輝かせているように感じた。

体験直後は
「この光こそが『命の本質』であり、この命の本質でもって相手の命の本質に働きかけて共鳴し、共に輝いていくことが愉気だ!!」
という直観(という思い込み)だけで終わったのだが、

つい先日、この出来事を患者さんに話していて、ふと、これが世界のあらゆる宗教が言う

自身に本来備わっている仏性や神性と呼ばれるもの

の本質で、野口晴哉師はこれを感得させる為に敢えて「神」を語らず文字に残さなかったのではないか??という考えが浮かんできた。

禅宗には「不立文字」「教外別伝」という言葉がある。
神道にも「言挙げせず」という言葉がある。

文字にすれば言葉にすれば言葉では言い表せないものを含む本質からズレてしまう。 だからこそ言葉にしないままにその本質を伝える

という意味である。
野口晴哉師はこれをしたかったのではないか??

そう思うと、愉気や活元運動、操法の時に重要視される
天心で行う
という教えはそのままその本質を感じる為の教えになっているし、

また、ピタッとこなかった岡島先生の答えにも得心がいく。
先生は、「神は自分の中に感じれば良い。」のであって「神になろうとする必要はない」と言いたかったのではないだろうか??
それが岡島先生が提唱した「中心感覚」を感じる為の方法でもある(のかな???)

そして自分の内にある神性を感じ、他者の神性を感じ、お互いが共鳴しあっていることを感じると、ありとあらゆる存在に自分が生かされていることが分かり、自然と感謝の念が沸いて来る。 また、そこには文字で書かれた教典や言葉で教えを説く教祖が介入する隙間はない。

自分の内側から湧き出て来るものを感じ、他者と世界を生かしまたよって生かされていることを感じ、毎日を全力で生き切ること。

それが野口整体、調息整体の極意なのかもしれない。

補足:天心とは??(健康生活の原理より)
>どこまでも謙虚に、ただ本能の働きだけに任せて行なう

>知識ではない、生命の知恵に任せきった無心

のことであり、また、愉気や活元(自働)運動においては、

>欲のない、相手に何ら求めることもなく、恩を着せることもなく、ただ自然の動きに動く
>そういう心の状態

でやるべきものとされている、整体の奥義とも言えるもの。