はまな調息堂

はまな調息堂ウェブログ:日々の堂主

調息整体指導室/はまな調息堂の堂主が、
からだを整えるということや日々の活動について
考えたことを綴ります

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先週、7月12日、枚岡神社に初めて行ってきた。

この神社の存在を知ったのは開業する少し前の35歳頃、神道系の新興宗教にはまった地元の知人の勘違いからである。

当時、ぼくは鍼灸学校の恩師とのご縁で大和の国の一宮である大神大社によく参拝し、御神体である三輪山に登拝して、日ごろの生活でついた穢れを浄化していただき治療家としての能力の維持を助けていただいていた。

そんなぼくに彼女は住吉大社に参拝しろと強く勧めてきた。
「大阪」の一宮であり西日本一の参拝客数をほこる、今、西日本で一番「勢いのある神社」だと彼女の信仰する宗教の教祖様が仰ってるから!!
という理由からだった。

その教祖様とやらの書籍を数冊読んだが、中身がスカスカで薄っぺらい内容な上に気軽に扱ってはいけない天部の神様の真言を唱えろと書いてあったり、仏教の輪廻転生からきた前世と、仏教に対抗するために古神道が唱えた守護霊を(つまり矛盾する)良いとこどりで使っていたり、とにかく軽い。

もともとぼくらは、「気」という科学ではまだ証明されていないものを実在するものとし、それを全ての感覚を使って感じ取り運用する。なので、深くなると自然と宗教と紙一重の物質文明とは違う概念で生活をすることになっていく

古来より「癒し」と「祈り」は不可分で、同じものとして存在していたのだから当然なのだが、ぼくたちは患者さんの「命と向き合い症状を治す」という明確な基準があり、そこが宗教とは根本的に違うところではある。

日々そういう職に身を捧げているぼくにとって、神や霊という存在を軽く扱う教祖様とやらがとても薄っぺらく、彼女がなんでこの程度の人物を盲信できるのか??不思議で仕方がなかった。

正直、ぼくは彼を全く信用していない

なので「大阪の一宮」を神社本庁のHPで調べてみることにした。
すると、面白いことが分かった。

一宮というのは地方の「令制国」においてその国の総鎮守の役割をもつ神社で、国ごとに一社ずつ定められている。(時代により変遷があったので、現代では一社ではない国もある。)

そして、大阪府は令制において、摂津国、和泉国、河内国と三つの国に分かれていたので、一宮も三社ある。実際は摂津国には2社あり、計4社存在する
(因みに河内国の一宮と間違えられる交野にある片埜神社さんは、「河州の一宮」で交野郡の一宮。)

彼女のすすめる住吉大社さんは摂津国の一宮であり、わが院のあるここ大阪市阿倍野区松崎町は摂津国なので住吉大社さんか坐摩神社さんで良いのだが、彼女の住むぼくの地元は河内国であり、そこの一宮こそ枚岡神社さんだった。

さらに、その枚岡さんを調べてみると、ぼくにとってとても重要な神社であることも分かってきた。

枚岡神社は生駒山の西側(大阪側)の東大阪に位置し、2700年近く前よりこの地に鎮座する
中臣氏(藤原氏)の氏祖である「天児屋根命」と后神の「比売御神」の2柱と、
778年に
香取神宮と鹿島神宮より招請された「経津主命」・「武甕槌命」の2柱をお祀りする
・「河内国の一宮」で、
768年に
天児屋根命・比売御神の2柱が春日大社に招かれたことから
・「元春日」とも称されている「旧官幣大社」である。

ぼくの家系は分家の分家だが藤原北家の流れを汲む家であり、また、習い事は鹿島・香取を守護神としている

なので長年、関西における鹿島・香取の神様をお祀りしている神社をずっと探していたことがあり、奈良の春日大社さんがその神社だったわけなのだけど(春日さんとのご縁も不思議な話がある。)、開業してからは奈良まで足を伸ばすことができなくなっていた。

枚岡さんに祀られている四柱の神様を総じて枚岡大明神とも呼ぶが、この大名神は春日大名神と同じ神様であり、生まれ育った南河内郡の属する河内の国の一宮、しかもわが院から一時間もかからない森の中に御鎮座されている。
ここならば頻繁にお参りに行くことが出来る!!

ただ、枚岡さんを知った当時はまだ大神さんや春日さんに通うことができたし、いつか必ずお参りさせていただかなければと思っていながら、今すぐである必要はない気がして保留することにした。

結局のところ、参拝できるまでに5年を要したわけだけど、この5年という保留期間の御陰でぼくは野口整体の分派である調息整体の指導者として、とても大切なものをいくつか手に入れることができたのだ。

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あれから5年

ようやく??いつの間にか??

周囲は目まぐるしく変化していくものの、
ぼくは、何も変わらないまま年齢だけ重ねている
それは10年後も20年後も多分同じ。

そうなりたくてこの阿倍野区は松崎町の地で開業に踏み切ったから。
やると決めたことだけに専念するために。

でも、実は開業当初はそうではなくて、
売り言葉に買い言葉、ただの意地だけで
「業界相場の半分」
なのに、
「業界平均の3倍以上」
「5年間続き3年必要だけど、期限は2年」
という重りを背負った

それが原因で自分にとって一番古い縁を切ることになり、
他にも大切にしていたものを幾つも手放し、
やると決めたことまで疎かにして、

ただ目の前のことをひたすらこなす日々を送ることになった。

いろんなご縁をいただいて助けてもいただいたのだけど、
それでも2年が過ぎた9月頃にどうにもならなくなり、
事情を知る人に年明けには廃業する事を伝えて
必要なことを準備までした。

それが偶然??か必然か分からないけど、
なぜかその次の月から綱渡りできる状態になり、
毎月それが続き、気がついたら1年を残して重りを
降ろせることに。

だけど、降ろしたら降ろしたで、
今度は「責任」を背負うことになり、その重さに尻込みし、
振り回され、でも、
なんとか踏みとどまって周囲が見える余裕が出てきたら、
1年が経っていた・・・

この5年、押し潰された時もあったけどよくよく考えると、
ご縁のあった全ての方々に目に見える形で、
また見えない形で引っ張ってもらい、支えてもらい、励ましてもらい、
ただただ感謝する毎日で、とても貴重な時間を過ごしていた

先月からようやく自分のやると決めたことに集中できるようになった。
ずっとやり続けてそれが恩返しになれるようにと思う。

また、新しい日々が始まる。
どうぞ皆さん、これからもよろしくお願いいたします

GWも終わり平成も残すところ1年と迫ったものの、ここ大阪は阿倍野区松崎町は寒暖の差が激しい日が続き調息整体や親流儀である野口整体の観方だともう梅雨の体になりだしているのだけど、日中でも肌寒い時間があり、当堂も暖房器具が終えないでいる。

百尺の竿頭の上に立って、さらに一歩を進めよ。

臨斉禅の古典である「無門関」に出てくる禅語である。
高校時分に宮本武蔵の「五輪書」を読んだ際、巻末の鎌田茂雄さんの解説で出会った。

百尺(約30m)の竿の頭まで苦労して上り詰めた=修行を積み悟りを得た境地にあってそこに安住せず、さらに一歩を進めなさい。

という意味である。

しかし、この言葉、想像してみるととても怖い状況だということに気づく。

先ず

30mの立てられた竿の上に立つ

どれだけの直径なのか分からないがこんな高い竿の先端は当然、揺れて不安定なわけで危険極まりない。その危険な先端に立った上でさらに、

一歩を進めよ

と言われているのである。
それは30mの上から墜ちろ、つまり、「死ね」と言われているに等しい

ぼくはこの禅語が白血病の闘病中いつも頭の片隅にあった。
実は当時のぼくはこの禅語の意味を

死の瀬戸際に立たされている状況で、さらに一歩を進めなさい

少し間違えて解釈していたのだけど、それが白血病という死と生の狭間に置かれた闘病生活をしている自分の状況にとても良く似ている気がして、そこから一歩を進める=死を意識したときに果たして自分は何が見えるのだろう??と臨斉禅における公案のようにずっと考え続けていたのだ。

26歳という世界に自分の居場所を構築しなければならない大切な時期にあって、長期に及ぶ闘病生活は病との戦いだけでなく、生死と生き延びた後に続くその後の人生に対しての不安と絶望と孤独とも戦わなければならなかった。

前骨髄球性型急性白血病という白血病の中でも96年に分化型療法という治療法が確立されたことで他の白血病と比べて体に負担の少ない治療になり完治率も段違いに高くなったとはいえ、大量の抗がん剤を使う過酷な治療であることに変わりはなく、
明日に生きている保証はどこにもない現実と、10年後、20年後の自分の為にそれまで数年にわたり必死に取り組んでいたものが全て真っ白になり、一からやり直しどころかやり直せるのか??という未来がぼくの上に分厚くのしかかってきて、周囲に何もない暗い深海の底にたった一人でいるような感覚に陥り、どうしようもない不安と絶望と孤独が襲ってきたのだ

そんな日常においてこの言葉は、遥か高くにある海面から差し込んでくる小さな光のような存在となり、不安と絶望の中から活路を見出すための大きな支えになった。

言葉にできない何かの感覚をつかんだ気は闘病生活すぐにあった。
しかしそれが何かは分からなかった。

それが分かったのは化学療法の第一クールが終わり、数日間の帰宅許可が出たときである。

一ヶ月間、ほとんどベットから動くことが出来ず、全身が衰え数メートル歩くだけで疲労するような状態で母に付き添われながら帰宅すると、玄関の前で飼っている愛犬が尻尾を目茶苦茶に振って出迎えてくれた。

出迎えてくれるのは毎度のことなのだが、いつもなら前を歩いている母に先ず飛びつき頭を撫でてもらってからぼくに飛びつくのが、その日は母を「邪魔!!」とばかりに鼻で押しのけぼくに飛びついてきたのだ。
と同時に、大雨の晩に一匹だけ側溝に落ちてふるえていた目も開いてないのをぼくが拾ってきた愛猫が門柱に駆け寄ってきてニャーと一鳴きした。

彼らの行動を見た時、ぼくは彼らがぼくの長い不在をとても心配してくれていたのを理解した。
その瞬間ぼくは、

ぼくという存在は何かの存在に生かされ、またぼくという存在は何かの存在を生かしている。

という、全ての存在はどんな時もどんな場所にいても繋がっていて、支えあっていることを理屈抜きで実感したのだ。

この実感が正しいのか間違っているのか分からないし確かめる術もない。
ただ、ぼくはこれ以降、生きていることの素晴らしさを実感し、次に起る出来事が例え死に直結することでも客観的に観察し楽しむことができるようになり、不安も絶望も孤独もどんどん薄れていった。

百尺の竿頭の上に立ち一歩を進めてみたら、ぼくには全てと繋がった光輝く世界が待っていたのである。

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とうとう平成29年も後少しとなり、阿倍野区松崎町界隈もクリスマスソングがちらほら聴こえてくるようになっている。

海に感謝する、空に感謝する、森に感謝する

ある沖縄のユタ(シャーマン)が琉球文化の信仰について語ったものだそうで、友人に教えてもらった言葉だ。

人智の及ばない何かに「感謝」をする。

という「信仰の本質」を言い表したこの言葉に出会って、ぼくは囚われていた色んなものから解放された。

調息整体の親流儀である野口整体の創始者、野口晴哉師は

・小さい頃、お寺の説法中にどこかで覚えた催眠術を聴衆にかけ、ゆらゆら揺らして遊んでいた。
・関東大震災の折に「三脈の法」を使って危難を避けた。
・その時に、腹痛で悩む人に手を当てたら治ってしまったことから、多くの人に手当てをした。

という元々不思議な子供で霊能者だった。

・人の生き死にが分かった。
・彼の操法を受けていた人が亡くなると、その人があちらの世界に旅立つ前に挨拶に来て、その後、訃報をしらせる電話が鳴る。
・神社に参拝し、道場を持つためのお金が欲しいとお願いしたら、帰りの参道の階段で古銭を拾い、以降、お金がどんどん入ってきた。

のように、彼のエピソードの中には彼が霊能者であることを示すものがいくつかある。
また彼は、

・「足止めの法」を始めとする験術を実現化できるだけの「法力」を持っていた。
・「滝伏せ」や「離れた弦楽器の弦」を鳴らすなどの気合術が高いレベルでできた。

など、霊能力だけでなく高名な霊術家のもとで修行し、出口王仁三郎を笑い飛ばし植芝盛平翁から跡を継いで欲しいと請われるぐらい高いレベルで異能の力を身につけた人でもあった。

そんな彼の創始した野口整体は目に見えないものを感じ、使いこなし、人智の及ばない力に謙虚に身を委ねて生きる思想と技術を説いている。
しかしながら、なぜか高い次元の存在である「神」については語られていない

野口整体をしたくて治療家の道に飛び込んだぼくは、駆け出しの頃、所属していた治療院で出会ったオーラヒーリングなどのスピリチュアル系にはまっていた先輩から、ハイアーセルフだのエーテル体だのアストラル体だの前世のカルマなど教えられ、野口整体ではどう扱うのか??と度々問われた。

また、身近な人間が新興宗教にはまり、会うたびにその素晴らしさを説かれ、入信を勧められもした。

治療と言うものがまだどういうものか分からず、整体を習い始めたばかりの当時のぼくにはそれらに答えたり反論できるだけの知識も経験も持っていなかった。
だけど、直感的に毎日の臨床の中で感じるなにかがその答えな気はしていたし、白血病の闘病中に感じたことがそこに繋がっていくんじゃないか??という気もしていた。

ただ、やはりあれだけの能力を持つ野口晴哉師がそれを語らないことが不思議ではあり、岡島先生に問うてみたものの

人が神を目指しても仕方がないでしょ??」

という当時のぼくでは分かるような分からないような、なんともピタッとこない答えだったのでずっとぼくの疑問になっていた。

それがひょっとして??という答えが浮かんできた。

バイトである寝たきり高齢者の方に対する訪問マッサージの患者さんで、その職場に入ってすぐに出会ってから10年のお付き合いになる頸椎損傷の女性の患者さんがいる。

出会った時はまだ60代の方である程度動けたのと、色々と紆余曲折があった結果、最初はマッサージと運動療法を行っていたのが数ヵ月後には整体操法を中心に行うようになった。
そんなある日のこと、

その日は自分の息がいつもより長く集中力があり、一連の操法の流れの中で手の引かれる処に手を当て目を瞑って愉気をしていたのだが、彼女と波が合っている感じがして、深い所にどんどん入っていく感覚があった

その内、彼女の中心の奥と自分の中心の奥に光り輝く場所があるのが見えてきた。

面白いのは、その輝きはぼくの手から出る光で照らしてやると強くなり、また、強くなった彼女の輝きが今度はぼくの中心の光を照らしぼくの輝きを強くしていくのが分かった。
こうしてお互いの輝きを強くしながら過ごしていると、やがてぼくの光と彼女の光が交差して一体になりぼくの体全体が光に包まれていった

光に包まれながらの愉気をしばらく続けた後、ゆっくりと目を開けて周囲を見渡してみると、視界に入るもの全てが輝いて見え、その輝きがまたぼくを輝かせているように感じた。

体験直後は
「この光こそが『命の本質』であり、この命の本質でもって相手の命の本質に働きかけて共鳴し、共に輝いていくことが愉気だ!!」
という直観(という思い込み)だけで終わったのだが、

つい先日、この出来事を患者さんに話していて、ふと、これが世界のあらゆる宗教が言う

自身に本来備わっている仏性や神性と呼ばれるもの

の本質で、野口晴哉師はこれを感得させる為に敢えて「神」を語らず文字に残さなかったのではないか??という考えが浮かんできた。

禅宗には「不立文字」「教外別伝」という言葉がある。
神道にも「言挙げせず」という言葉がある。

文字にすれば言葉にすれば言葉では言い表せないものを含む本質からズレてしまう。 だからこそ言葉にしないままにその本質を伝える

という意味である。
野口晴哉師はこれをしたかったのではないか??

そう思うと、愉気や活元運動、操法の時に重要視される
天心で行う
という教えはそのままその本質を感じる為の教えになっているし、

また、ピタッとこなかった岡島先生の答えにも得心がいく。
先生は、「神は自分の中に感じれば良い。」のであって「神になろうとする必要はない」と言いたかったのではないだろうか??
それが岡島先生が提唱した「中心感覚」を感じる為の方法でもある(のかな???)

そして自分の内にある神性を感じ、他者の神性を感じ、お互いが共鳴しあっていることを感じると、ありとあらゆる存在に自分が生かされていることが分かり、自然と感謝の念が沸いて来る。 また、そこには文字で書かれた教典や言葉で教えを説く教祖が介入する隙間はない。

自分の内側から湧き出て来るものを感じ、他者と世界を生かしまたよって生かされていることを感じ、毎日を全力で生き切ること。

それが野口整体、調息整体の極意なのかもしれない。

補足:天心とは??(健康生活の原理より)
>どこまでも謙虚に、ただ本能の働きだけに任せて行なう

>知識ではない、生命の知恵に任せきった無心

のことであり、また、愉気や活元(自働)運動においては、

>欲のない、相手に何ら求めることもなく、恩を着せることもなく、ただ自然の動きに動く
>そういう心の状態

でやるべきものとされている、整体の奥義とも言えるもの。

狂言の名家、茂山千五郎家に伝わる家訓に、

お豆腐狂言

という言葉がある。


もともとは十世正重師(二世千作)が、江戸時代までは特別階級の文化であり、明治でも上演するのに様々な制約があった狂言を、一般の人達に広く気軽に楽しんでもらおうと色々な場で余興として上演したことで、

「彼らの狂言は我々のやっている特別な芸能文化ではなく、どこの家の食卓にも上がる豆腐のような安い奴らや」
という悪口を言われたのを二世千作師が、

それ自体高価でも上等でもないが、味つけによって高級な味にもなれば、庶民の味にもなる。お豆腐のようにどんな所でも喜んでいただける狂言を演じればよい。より美味しいお豆腐になることに努力すればよい。

と、逆手にとり茂山千五郎家の家訓とした。
そして、それは現在の狂言の大きな流れになった

お豆腐のような気軽に愛される存在。

亡くなった恩師は「カリスマ指導者」だったし元々演劇の演出家出身なこともあり、積極的にそういう演出を自身にされていた。

野口晴哉師が人の体を調整する技術として、自身のカリスマ性を最大限に利用していたことを参考にしたのだと思うが、

羽織袴だったりピースを吸っていたり、仕草だったり、普通の人がやればキザに見えることも、岡島先生は俳優のような男前だったから、やることが一々格好良くとても映えた。

しかし休憩時間に質問などに行くと、先生ご自身はいつも気さくに対応して下さるのだけど、雰囲気に飲まれてしまいちょっと畏れ多い感じがして、慣れている古参の人は別としてなかなか先生に近づけなかった。

そんな時にいつも岡島先生と僕たちとの間に入って距離を詰めてくれたのは、当時、関西支部の事務局長をされていた水野靖先生だった。

自身の業務のあいま、緊張している新規の会員さんに話しかけたり、冗談を言っては周りを笑わせたり、いつもニコニコ笑顔で周囲に気を配って場を和ませていたし、自分が講師をする時も、支部長の福島先生を相方に漫才のような講座をしていた。
(相方がぼくに代わっただけで、現在もこの漫才講座は変わってない。)

整体の操法も岡島先生が緊張感のある厳粛な空気の中で行われていたのに対して、水野先生は笑いの絶えない柔らかな空気の中で行われている。
技術的には、水野先生の操法を受けられた多くの古参の会員さんが「岡島先生に押さえてもらったと錯覚する」ぐらいそっくりなのだが、二人の整体指導者としてのスタイルは正反対なのだ。

ぼくはこれにとても救われた。

岡島先生は「野口晴哉師のスタイル=野口整体のスタイル=調息整体のスタイル」として日々の指導を行っていたものの、ぼくが整体に出会う以前の臨床で見つけた自身の持ち味はそのスタイルの中で使っていくのはほとんど不可能であったし、「カリスマ」とは程遠い元々の性格上それを一つの武器として使う岡島先生のスタイルを真似て使うことは余りにも窮屈で、

整体指導者として生きていくにはやっぱり今まで身に着けたものを捨ててそのスタイルに矯正すべきか悩んでしまい、ある時水野先生に問うてみた。

水野先生の答えは

「岡島先生の真似なんてそんなん無理や、あの男前の師匠がするから絵になってええけど、俺や野中がやったら笑われるだけやし、師匠のような実力者がやるならともかくお前みたいなんが整体指導者でございってカッコつけても、今のご時勢、難しいのんと違うか??もっと気軽に受けてもらえるものでええと思うで。」

というものだった。

それを聞いて安心したぼくは自分の持ち味を捨てずに自分のスタイルを作ることにした。 水野先生のようなそして茂山千五郎家の狂言のような、気軽に操法を受けてくださる

お豆腐整体

のスタイルを。

はまな調息堂を開業して以来、うちに通ってくださる患者さんは、恐らく、他の治療家とはしないような会話をしたり、深い悩みを打ち明けてくださったり、リラックスして受けて下さったりしていると多分、思う。
そういった意味である程度は「お豆腐整体のスタイル」を作ることができたかな??と思っている。

ただ、カリスマ性がまったくない分、患者さんがぼくの術後のアドバイスをなかなか守ってくれないという弊害はあるのだけど、まぁそれはこれからの研究課題だ。

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