はまな調息堂

はまな調息堂ウェブログ:日々の堂主

調息整体指導室/はまな調息堂の堂主が、
からだを整えるということや日々の活動について
考えたことを綴ります

夏が来たっ!!、のだけど、2016年の夏は記録的な猛暑になるらしく、 ここ大阪は阿倍野区松崎町も連日、30度を越える暑さが続いている。

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いくら、
選択したのは自分、誰のせいでもなく自分が望んだから今になってる。
と分かっていて覚悟していても流せるものばかりではなく、
たまにダメージを受けることもあるわけで、

今月は、特に先週は、そんなことが続いて心のエネルギーを垂れ流し、お陰で今週はガス欠気味での低空飛行。

笑顔も素直に出せなくなってた、
そんなちょっとヤサぐれた週の金曜日

訪問医療マッサージのバイトで、個人宅の寝たきりの女性の患者さんを訪問。

まだ、通いはじめて数ヵ月、他の先生方と交代で週三回通ってるその方は、もうすぐ90歳の声が聞こえる方で、とても品のいい素敵な方
お体が華奢なのでとても繊細に施術を進めなければならない、集中力のいる方でもある。

30分ほど全身の関節を緩めて、なんとか終わったと「ほぉーっ」と一息ついたあと、彼女の手を握り

「今日はこれで終わりです。ありがとうございました。」

そして、「もう少しいたいけど」という気持ちを込めて、

「また来週きますね。」

と言うと、いつもなら、

「ありがとう、気持ちよかったわぁ」

と仰ってくださるのだけど、なぜか、

「もう終わりなの??さびしいわねぇ・・・」

と、普段は言わないことを言い
続けて、

「ところで、先生、お願いが有るんだけど・・・、私を名前で呼んでくださる??」

と仰って可愛く笑った

その瞬間、なんだろう??胸にふわぁっと温かいものが広がって、なにかに満たされたぼくは、とても嬉しくなり自分の中で一番のとっておきの笑顔が自然と出たのだ。
そしてその笑顔のまま、再び、

「○○○さん、また、来ますね、お会いできるの楽しみにしてます!!」

と告げ、
さっきよりももっと可愛い笑顔になった彼女を見届けて、
その家をあとにした。

バイクに乗ったぼくは彼女の笑顔を思い出すとどんどん嬉しくなる。
そして、暑いだけたった世界は輝きの世界に変わり心は温かなエネルギー満たされ溢れかえっていた

やさぐれてた金曜日は、こうして、とても大切なものをいただいた嬉しい金曜日になった。

大阪市でも阿倍野区は高齢者が多く、松崎町界隈も高齢者世帯が多くある。 わが堂も区役所の前という立地からそういった高齢者の方をよくお見かけする。

ただそういった方はまだ区役所に用事で来られるぐらいは歩けるだけに余裕を持って見ていられるのだけど、実は超高齢化社会のこの日本には普段、表に出てこないだけで要介護で寝たきりの方が、

寝たきり高齢者への医療保険を使った訪問マッサージと機能訓練

を専門にする業者がいくつも出来るぐらいにはいる。

かくいうぼくも開業前の10年近くを寝たきり高齢者さんへの訪問マッサージと機能訓練の世界で生きてきたし、今でも開業前に所属していた治療院(=ヘルスケア治療院)でバイトとして週の半分以上を京阪神地域をバイクで周りながら過ごしている。

受け持っている患者さんは脳梗塞、脳溢血の後遺症による片麻痺(=体半分が動かない)、パーキンソン氏病(または症候群)、の方がほとんどで、後は頚椎損傷や骨折などで生活機能が低下した方々が数人。

そしてその内の半分ぐらいの方が認知機能の低下したいわゆる、「認知症」の患者さんになっている。

この訪問マッサージで使う技術じたいは実はそんなに難しくはない。
筋肉量も低下し様々な機能が衰えている患者さんに下手に複雑なことをしても、怪我をさせてしまったり体力の消耗を招いて逆効果になってしまうので、あえてシンプルな技術を用いているからだ。(実費施術もされていたバイト先の尊敬する大ベテランの先生は、「うちの業務は技術だけなら目つぶって片手でできる」が口癖になっている。)

この分野で一番難しいのは、手技の技術以上に
患者さんにこちらの施術意図をどう伝え理解してもらい、積極的になってもらうか??」 である。

意思の疎通が図れる患者さんならば比較的簡単で、納得してもらうよう説明し納得していただいたら、後は粛々と施術の回数を重ねて寝たきり状態からの脱出を目指せばいい。
難しいのは担当の半分ぐらいを占める認知症を伴った患者さんの施術だ。

そのまま始めようとすると何をしに来たのかを理解されていないので、簡単に拒否が入り訪問しても施術ができずスゴスゴと撤退することになったり、できたとしてもこちらの指示が全く伝わらずやらなければならない事の半分も出来ずに帰らなければならなくなったりする。

だが、上手いと言われる先生は他の施術者が拒否をくらって撤退した患者さんを楽々と施術し、患者さんの笑顔を引き出し結果をだす

ここに「腕の差」が現れる。
ここが工夫のしどころなのである

ぼくもこの分野に飛び込んでから、上手い先生の施術を参考にしたり、思いつく限りで許される範囲のあらゆる方法を試してきた。
そんな中、4~5年ぐらい前にあるコツを思いつき、それを元に研究し失敗も重ねて自分なりのノウハウができてきたので、ここ1年ほどは他の施術者では対応できない患者さんを診ることが徐々にではあるが出来てもきている。

そのコツは余りにシンプルなので新人の先生の研修をしてもその工夫を誰も気がついてくれず、訪問先の施設のスタッフさんに説明しても「???」な顔をされてしまう。
バイト先のぼくより腕のある先生方はもちろん皆さん心得ていて、「野中先生、それでええんやで~」と笑ってくださるのだけど、なんで伝わらないかなぁ~??と不思議に思っていた

つい先日、整体の勉強会の後、師匠と呑んだ帰り、気分よく酔っぱらった勢いで、お金もないのに介護関係のある技術書を探したくなり、思いついて阪急梅田の紀伊国屋本店に立ち寄った。
お目当ての技術書はなかったのだけど、別の技術書を数冊見つけてしまい寂しい懐と相談して どれを買おうか悩んでいたところ、視界の隅に

ユマニチュード入門

の文字が飛び込んできた。
以前、同業の友人から紹介してもらいながらまだ読んでいなかった書籍だ。

どんなことが書かれているんだろう??と手に取り流し読みをしようと数ページめくったところで、すごく驚いてしまった。
なにせ認知症患者さんに対してぼくがつかんだコツとそこから積み上げてきたノウハウがそっくりそのまま洗練された形で載っていたのだから!!
まさしく、目玉どこーレベルでの

えええええええつ!!!

である。

2年ほど前にNHKで紹介されて有名になりとてもシンプルで簡単な技術であるのだけど、介護の現場ではほとんど取り入れられていない。(ぼくの知っている範囲では。)

この「ユマニチュード入門」に載っているのは初歩の技術だが、その初歩の技術だけでも認知症患者さんへのケアが一気に変わる。介護職の方にとっては恐らく生きている世界そのものが変わる
それぐらい凄い技術なのだ。

介護関係に従事する方はぜひ一度読んで見て欲しい。

151123:

大阪は阿倍野区松崎町もすっかり秋、というか、そろそろ冬の訪れを感じる今日この頃、 8月頃に書きかけて途中で放棄していた文を、なんとか最後まで書きあげてみた。

はがきの名文コンクール

>「はがきの名文コンクール」のテーマは、一言(ひとこと)の願いです。
>はがきに、願い事を書いてください。

>20字以上200字以内の日本語の文章で。
>あなたの願い、家族のための願い、世界の人々のための願い、未来への願い・・・
>願い事はどんな内容でもいいのです。
>御所市にある一言主(ひとことぬし)神社の神様は、
>一言の願いであれば何でも叶えてくれると伝えられています。
>その神様にちなんで、1枚のはがきに1つの願いを。
>願い事がたくさんあるのであれば、何枚出してもかまいません。
さあ、あなたは何を願いますか?
(hpより引用)

御所市、一言主神社の近くにある郵便名柄館で8月10日まで受付られていた同コンクール。 郵便局に立ち寄った際にポスターをみかけ、「大賞:1名、100万円」に目がくらみ、投稿してみようか??なんて割と本気で考えてしまった。

「一言の願い」とは言え、200字まではいけるので結構長い文章でも受け付けてはくれるのだけど、困ったことに数日考えてみて、「願い」が思い浮かばない
もちろん、ぼくは聖人君主では無いので願いは沢山あるのだが、大賞どころか入選も無理そうな個人的な「煩悩」ばかりなのである。

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ただ、昔になにかそういうものを書いた覚えが有るな??と遠い記憶をさかのぼってみたら、「願い」というか「思い」というか、26歳の時に

遺書

を書いたことが有るのを思い出した。

もちろん正式なものではなく、手帳の裏に鉛筆書きで書いた「家族に伝えたかった思い」と自分の死後に残された遺物の処理を万一の時のことを考えてメモ書きにした、その程度のものだ。

02年の6月、ぼくは白い壁とやたら景色の良い窓に囲まれた病室のベットに横たわっていた。

その2ヶ月前の4月15日に前骨髄球性型急性白血病で地元の病院に入院。
思ったより闘病生活は楽で、周囲の心配をよそに本人は三食昼寝つき、素敵な女性(=看護師さんやスタッフさん)に相手をしてもらえるという毎日を、「ちょっと不便なホテル生活」とうそぶきかなり楽しんでいた。

異変があったのは恐らくその月の中旬、抗がん剤で骨髄幹細胞の動きが抑制され、副作用で白血球だけでなく赤血球、血小板も減少、貧血症状や出血傾向の増大が起き出した時のことだ。

少なくなった血小板を補う為に血小板輸血を行ったのだが、その血小板の付着物にぼくの免疫が過剰反応し、アナフィラキシーショック(=アレルギーが原因のショック)を引き起こした。

見舞いに来てくれていた母親に、

「ちょっと今日は痒みがきついわ~」

と言って看護師さんを呼び処置をしてもらっていたところ(輸血すると多少はアレルギー反応がでるらしい。)、突然、全身に麻疹のような発疹が浮き上がり、発狂するほどの凄まじい痒みが体の内側から湧き上がった瞬間、ぼくは意識を失いベットから転げ落ちた。(皆さんが作業をしやすい用に、ベット柵を外していたのが仇になった。)

そのまま床に転落して頭でも打てば血小板の足りないぼくは脳出血を起こして死ぬところだったのだが、たまたま抗アレルギー薬を点滴投与しようとベットの傍らに来ていた看護師さんが受け止めてくれてそのまま床までずり落ちたことで奇跡的にまったくの無傷で済んだのだ。
(意識が戻ったあと、可愛い看護師さんの胸の感触を何故か覚えていたのは、もてない男の悲しい性・・・。)

床に横たわったまま目を開けたぼくの視界に飛び込んで来たのは、ぼくを囲むように見ている主治医じゃない別の先生と数人の看護師さん達の顔。

何人かがかりですぐさまベットに担ぎ上げられたぼくは眠くて眠くて仕方がなかったのだけど、慌てて駆けつけ交代した主治医の先生に眠りそうになるたびに頬をペチペチと叩かれて、

「野中く~ん、起きてるか~、指、何本に見えるか言えるか~!!」

強制的に叩き起こされた。

後で看護師の姉から、それは

意識レベルが低下していてそのまま眠ってしまうと昏睡状態になる危険な状態」

だったのだと聞かされたのだが、当の本人は

「先生、勘弁してくれ、疲れたから寝かせてくれ~。」

と暢気に思っていた。

そのまましばらくして大丈夫なことを確認し先生もスタッフさんも去り母親も退出したのだが、酸素マスクをつけさせられたぼくは、

なんであのまま死なせてくれへんかったんやろう??、そのまま死ねたら楽やったのになぁ~。お陰で寿命が来るまでの数十年、また苦しまなあかんやん。。。」

と、しばらくぼやーっと思っていた。

そんな考えが自然と思い浮かぶぐらい死にゆく感覚が気持ちが良かったのだ。

そのまま30分ぐらい経っただろうか??
だんだんと意識がはっきりしだすと今度は言いようのない死への恐怖が現れてきて、自分が生きていることが嬉しくまた救ってくれた全ての存在に感謝をしたくなり、ボロボロと涙が溢れ出てきた。

あの時に感じた「死への憧れと生への感謝」の気持ちは、ずっとぼくの中にあって、「いつ死んでもいい」という感覚と「絶対、死にたくない」という感覚がぼくの中で矛盾なく同居している。

だから、

どうせ死ねへんからええやん。」と「あかんかったら死んだらええねん。」

という相反するものがぼくの人生における判断基準になってもいて、

生かしてもらってるだけで有り難い。」

とも自然に思うようにもなったりもして、結果、普通の人とは違う人生を歩むことになっている。

あの事件の直ぐ後のことだ、いつ死ぬか分からないと思ったぼくが遺書を書いたのは。

だからかも知れない、ぼくが「一言の願い」がまったく思い浮かばなかったのは。
あの時に書いた遺書以上のことは書けそうも無いのだ。

151122:

今年の冬は暖かいようで大阪は阿倍野区松崎町界隈の街路樹も12月になろうとしているのに、あまり色づいていない。

ぼくは6歳で始めた剣道を初めとして調息整体、習い事とずっと何かの技術を習得することに多くの時間を捧げてきた。
だけど、どれも一流と呼ばれるような存在に未だになれてはいない。

入門始めの頃は全てを捧げて没頭すれば簡単ではないが上の段階に普通に上がれるものだと思っていたし実際に捧げもした。そして捧げた時間の分だけ上達もした。
しかし一年も経つと同期で入門した仲間にじりじりと離されるようになった。

ぼくには

才能が無い

一言で言えばそうだったのかもしれない。

でも、一生を賭けようとしたものがそんな理由で上達できないのは納得できなかったし、やはり悔しくもあったので、

「もっと時間を捧げてみればいくら才能が無くても離されないんじゃないか??」

と考えて、二年目からはもっと捧げてみた。

そうしたら今度は自分が何をやっているのか「訳が分からなく」なり、どんどん離されていくことに益々焦り混乱をし、気がつけば三年目の始めに白血病を発病して入院。
それまでのお粗末ながらも費やした努力が吹き飛んでしまった。

入院中、周囲からは整体と習い事から離れ別の道を歩んでみたらどうかと強く進められた。
現代医学的には原因が不明な上「再発」の危険性がある病気なだけに、以前と同じような生活に戻って欲しくはなかったのだろう。

しかし本人はさらさら止めるつもりはなく(止めたところで他にやれることもなかった。)、入院中から体調の良い日は調息整体の勉強をしたり習い事の稽古をしたりして、発病からの2年後に復帰をした。

だけど復帰を果たして修行を再開したものの、困ったことに「訳が分からない。」ことは入院前と変わっていなかった。いや、積み上げてきたものが吹き飛んでいた分、前よりひどくなっていた。

十数年が過ぎた今、本質的な理解が全く出来ていないように感じる。
習い事は恩師の導きに従いただただ素直に稽古を重ねて、いつか理解できる日が来ることを信じるしかないから良いのだが、
調息整体の方は水野先生の講座を受け続け、懇切丁寧な解説と技術指導も受け続けてはいる。
その毎回の講座はとても面白く、生命の不思議さを感じさせてもくれる。

ただ、講座で習ったことを自分なりにどう整理自由に使いこなせるようにしていくか??
つまり、講座外の自習のやり方が致命的に分からず、どうすれば岡島、水野の両先生に追い付けるか分からない。

その為に同じところをずーっとグルグル回っているだけのような気がするのだ。

徒し事はさておきつ

皆さんは、ジョッシュ・ウェイツキンという人をご存知だろうか?? 映画、「ボビーフィッシャーを探して」の主人公である天才チェスプレーヤーの少年のモデルと言うと知っている人がいるかもしれない。

1976年、ぼくと同じ年にアメリカで生まれたこの人は、アメリカ出身の元世界チャンピオンにして天才チェスプレーヤー、ボビー・フィッシャーの再来といわれ、8歳のときに初めて世代別の全米チャンピオンになる。
その後は80年代~90年代に一線で活躍し続け未来の世界チャンピオンといわれ期待されるも、様々な葛藤から東洋哲学に傾倒し、98年に友人の勧めで訪れた太極拳の教室で鄭氏太極拳の創始者、鄭曼青氏の高弟、陳至誠氏に出会い、その太極拳に魅了されて入門。
20代前半で競技チェスからは引退し、太極拳の修行に没頭することになる。

その後、数年で推手競技(太極拳の技術で行う相撲と言えば分かりやすいか??)の全米チャンピオンになった後、04年には台湾で行われた推手の世界大会に2部門で優勝するという快挙を達成する。

そんな彼が大会の2年後に書いた、

習得の情熱

は、ジョッシュがチェスに出会ってから推手の世界チャンピオンになるまでの自伝であり、
また彼が二つの異なる分野で一流の競技者になるべくどのようにして学習し、どのようにして様々な問題を乗り越えたか??を詳しく明かした「技術習得の方法論」の解説書になっている。

・土台になる基本原理の技術を無意識に染み込むまで反復する。
・その技術を今度は実際の場面で使えるよう、小さく単純なものにしていく。

など、喉から手が出るぐらい知りたかった効率良く上達するためにやるべきことが惜しげもなく書いてあり、
また、

・起った事象を徹底的に分析し研究する。
・自在にゾーンに入るための方法

などといった、本番において結果を出すための方法論まで述べられている。

正直、この本を手に入れたときに、なんでもっと早く出会わなかったのだろう??出会っていればこんなに悩む必要もなく、無駄な時間を過ごすことはなかったのに・・・と嘆息してしまった。
(習い事に関していえば、修行体系と恩師の指導がそのままこの書籍の内容にあてはまり、なんのことはない、自分が各段階を疎かにして先に進もうとしていただけなことが露呈した。)

上達に悩む全ての表現者に、この本は多くの光を届けるであろうことを、ぼくは信じている。

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世の中は日本刀ブームだそうで、なんでも「刀剣乱舞」だかいう日本刀を擬人化したブラウザゲームがその火付け役で、鑑賞セミナーなどに多くの女性が殺到しているんだとか??
確かにわが阿倍野区松崎町の調息堂の近くにあるコンビニ数件にも日本刀関連の書籍や雑誌を見ることが多くなった。

調息堂主人も小学校の頃から高校卒業まで、小さい体格とヘタレの為にまったく強くはなかったものの剣道をたしなみ、膝を傷めて出来なくなった今でも別の形で刀や武の世界に関わっていて、それが整体の世界に飛び込むきっかけの一つにもなっている。

ある知人がそういう「武」に縁のあり続ける人は、「血が呼ぶのだ」と言っていた。
血が呼ぶ、つまり両親どちらかの先祖が武家の人が多いのだという。
統計をちゃんととったわけではないのだけど自分の周りの「武」に関わり続けている友人数人に聞いたところ、やっぱり両親どちらかの先祖が武家の人が多かったので、そういうもんなのかな??と、信じてみることにしている。(そういうもんだとカッコいいし・・・)

かく言うぼくの先祖も父方が武家だ。
大分遡ったところで本家から別れ、父親も次男で家をでているし、母方は農家の家なので薄い血ではあるものの、遠州浜松では有名な逸話に関わった人の子孫らしい。

らしいというのは、明治の廃仏毀釈で村(現、浜松市平松町)の寺が焼き討ちにあい預けていた家系図が焼けたのと、蔵に泥棒が入ったり戦時中の供出で具足類をとられたりしたために、ほとんど証拠が残ってないからである。(その蔵つきの家も折からの不況で土地ごと売りに出され、今では新しい家が建ってしまっている。)

昔、父に聞いた時もどういう人なのか名前すら良くわかってなく、その手がかりも父が小さい頃から聞かされていた、

「家の先祖は悪いお姫様を斬った人だ」
三五郎様と呼ばれていたらしい。」

という言い伝え??だけで、我が家では長い間の謎だった。
それがネット時代の凄さで、暇だった次姉がちょっとグーグルさんに尋ねてみたところ、あっさり特定できてしまった。

野中三五郎重政

この人がうちの先祖(らしい人)である。

遠江国、藤原北家の血をひく豪族である中安氏の出身で、徳川家康の家臣として三方ヶ原の合戦に従軍、そこで武功を挙げ注目された武人として優秀な人であった。
そしてその合戦の6年後、彼は日本刀剣史においても日本史においても有名な事件の主要人物として関わることとなる。

築山殿暗殺事件

天正7年8月29日(1579年9月19日)に正妻で今川家の娘である築山殿を家康公の命により騙して連れ出し、遠江国小藪村で自害させた事件。
その首謀者の一人で介錯人を務めたのが野中重政であり、この時、介錯に使われたのがあの「村正」で、村正が妖刀と言い伝えられることになる由縁の一つとなった。

殺害時に38歳だった築山殿からは「七代まで祟ってやる」と言われ、命じた家康公からは「馬鹿正直に殺さなくとも他の仕様があったろうに」となじられ、主君勤めに嫌気がさした彼は故郷の堀口村(恐らく現平松町)に隠遁することになるのだが、
子孫に聾唖の姫が生まれたり、浜松城に怪異が度々起きたことから、築山殿の遺体が埋葬されている浜松市中区広沢の西来院に供養塔を建てて毎年祭りを執り行い慰霊に努めたとされる。

この築山殿、悪い妻女としての話が流布されていたのだが、近年の調査によると家康公との夫婦仲も良く、ただ公の保身の為暗殺したことを正当化するために後世にそういう伝説を作られ広められてしまったらしい。

そんな築山殿があまりにも切なくて、開業前に一族のお墓参りに連れていってもらった折に、西来院の御霊廟、「月窟廟」にも参りお詫びをさせていただいた。
(ちょっと不思議なのは、築山殿が殺害された8月29日はぼくの母の誕生日である。旧暦になおすと9月19日なので違うのだが、偶然にしては・・・)

妖刀「村正」の伝説を作った先祖を持つ呪われた一族という金田一幸助に調べ回されそうな一族の末裔であり、さらに母方の祖父は平松町の隣、白州町の神社である鹿島さん(!!)の神官をやっていた、それがぼくの「血」である。
(小さい頃から家康公のことがなぜか嫌いだったのも、この血のせいかもしれない。)

そりゃ刀や武の世界から逃げられませんわな~と感心してしまった。

ただ本身の刀のことに関しては不勉強もいいところなので、この刀剣ブームにのっかって嗜みの範囲で勉強しておくのもいいかなぁ??とも考えているのだが、ブームに乗っかるというのがなにか悔しい気もしているのである。

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