大阪は阿倍野区松崎町もすっかり秋、というか、そろそろ冬の訪れを感じる今日この頃、
8月頃に書きかけて途中で放棄していた文を、なんとか最後まで書きあげてみた。
はがきの名文コンクール
>「はがきの名文コンクール」のテーマは、一言(ひとこと)の願いです。
>はがきに、願い事を書いてください。
>20字以上200字以内の日本語の文章で。
>あなたの願い、家族のための願い、世界の人々のための願い、未来への願い・・・
>願い事はどんな内容でもいいのです。
>御所市にある一言主(ひとことぬし)神社の神様は、
>一言の願いであれば何でも叶えてくれると伝えられています。
>その神様にちなんで、1枚のはがきに1つの願いを。
>願い事がたくさんあるのであれば、何枚出してもかまいません。
>さあ、あなたは何を願いますか?
(hpより引用)
御所市、一言主神社の近くにある郵便名柄館で8月10日まで受付られていた同コンクール。
郵便局に立ち寄った際にポスターをみかけ、「大賞:1名、100万円」に目がくらみ、投稿してみようか??なんて割と本気で考えてしまった。
「一言の願い」とは言え、200字まではいけるので結構長い文章でも受け付けてはくれるのだけど、困ったことに数日考えてみて、「願い」が思い浮かばない。
もちろん、ぼくは聖人君主では無いので願いは沢山あるのだが、大賞どころか入選も無理そうな個人的な「煩悩」ばかりなのである。
ただ、昔になにかそういうものを書いた覚えが有るな??と遠い記憶をさかのぼってみたら、「願い」というか「思い」というか、26歳の時に
「遺書」
を書いたことが有るのを思い出した。
もちろん正式なものではなく、手帳の裏に鉛筆書きで書いた「家族に伝えたかった思い」と自分の死後に残された遺物の処理を万一の時のことを考えてメモ書きにした、その程度のものだ。
02年の6月、ぼくは白い壁とやたら景色の良い窓に囲まれた病室のベットに横たわっていた。
その2ヶ月前の4月15日に前骨髄球性型急性白血病で地元の病院に入院。
思ったより闘病生活は楽で、周囲の心配をよそに本人は三食昼寝つき、素敵な女性(=看護師さんやスタッフさん)に相手をしてもらえるという毎日を、「ちょっと不便なホテル生活」とうそぶきかなり楽しんでいた。
異変があったのは恐らくその月の中旬、抗がん剤で骨髄幹細胞の動きが抑制され、副作用で白血球だけでなく赤血球、血小板も減少、貧血症状や出血傾向の増大が起き出した時のことだ。
少なくなった血小板を補う為に血小板輸血を行ったのだが、その血小板の付着物にぼくの免疫が過剰反応し、アナフィラキシーショック(=アレルギーが原因のショック)を引き起こした。
見舞いに来てくれていた母親に、
「ちょっと今日は痒みがきついわ~」
と言って看護師さんを呼び処置をしてもらっていたところ(輸血すると多少はアレルギー反応がでるらしい。)、突然、全身に麻疹のような発疹が浮き上がり、発狂するほどの凄まじい痒みが体の内側から湧き上がった瞬間、ぼくは意識を失いベットから転げ落ちた。(皆さんが作業をしやすい用に、ベット柵を外していたのが仇になった。)
そのまま床に転落して頭でも打てば血小板の足りないぼくは脳出血を起こして死ぬところだったのだが、たまたま抗アレルギー薬を点滴投与しようとベットの傍らに来ていた看護師さんが受け止めてくれてそのまま床までずり落ちたことで奇跡的にまったくの無傷で済んだのだ。
(意識が戻ったあと、可愛い看護師さんの胸の感触を何故か覚えていたのは、もてない男の悲しい性・・・。)
床に横たわったまま目を開けたぼくの視界に飛び込んで来たのは、ぼくを囲むように見ている主治医じゃない別の先生と数人の看護師さん達の顔。
何人かがかりですぐさまベットに担ぎ上げられたぼくは眠くて眠くて仕方がなかったのだけど、慌てて駆けつけ交代した主治医の先生に眠りそうになるたびに頬をペチペチと叩かれて、
「野中く~ん、起きてるか~、指、何本に見えるか言えるか~!!」
と強制的に叩き起こされた。
後で看護師の姉から、それは
「意識レベルが低下していてそのまま眠ってしまうと昏睡状態になる危険な状態」
だったのだと聞かされたのだが、当の本人は
「先生、勘弁してくれ、疲れたから寝かせてくれ~。」
と暢気に思っていた。
そのまましばらくして大丈夫なことを確認し先生もスタッフさんも去り母親も退出したのだが、酸素マスクをつけさせられたぼくは、
「なんであのまま死なせてくれへんかったんやろう??、そのまま死ねたら楽やったのになぁ~。お陰で寿命が来るまでの数十年、また苦しまなあかんやん。。。」
と、しばらくぼやーっと思っていた。
そんな考えが自然と思い浮かぶぐらい死にゆく感覚が気持ちが良かったのだ。
そのまま30分ぐらい経っただろうか??
だんだんと意識がはっきりしだすと今度は言いようのない死への恐怖が現れてきて、自分が生きていることが嬉しくまた救ってくれた全ての存在に感謝をしたくなり、ボロボロと涙が溢れ出てきた。
あの時に感じた「死への憧れと生への感謝」の気持ちは、ずっとぼくの中にあって、「いつ死んでもいい」という感覚と「絶対、死にたくない」という感覚がぼくの中で矛盾なく同居している。
だから、
「どうせ死ねへんからええやん。」と「あかんかったら死んだらええねん。」
という相反するものがぼくの人生における判断基準になってもいて、
「生かしてもらってるだけで有り難い。」
とも自然に思うようにもなったりもして、結果、普通の人とは違う人生を歩むことになっている。
あの事件の直ぐ後のことだ、いつ死ぬか分からないと思ったぼくが遺書を書いたのは。
だからかも知れない、ぼくが「一言の願い」がまったく思い浮かばなかったのは。
あの時に書いた遺書以上のことは書けそうも無いのだ。