はまな調息堂

はまな調息堂ウェブログ:日々の堂主

調息整体指導室/はまな調息堂の堂主が、
からだを整えるということや日々の活動について
考えたことを綴ります

「こんばんわ~」
夕方、日が落ちる頃に来るある患者さん。

仕事上の知人から近くにできたから、言ってみれば??
と紹介されての来院。

初めて来られた時は顔色が優れず眉間が緊張して鬱症状と軽いリウマチも出て不眠頭痛が続いている。
聞くととてもショックなことが重なり、どうしようもなくなってしまったとのこと。

体を観させてもらうと、骨盤は固まり捻れ頭が過緊張を起こし、「がん」に関係する反応点にも反応が出て、なんとかリウマチ症状でがん化を防いでいる

かなりガタガタで、どこから手をつければ良いのか分からない状態なので、とにかく一週間に一回に通ってくださることになった。

初診の数日後から、今度は友人の紹介で別の整体にも通いだしたのだけど、それでも掛け持ちで通い続けてくれたのは、ぼくの施術後は熟睡できているからと旦那さんが通うことを勧めてくれたのもある。

向こうには内緒でうちに来てくれていたらしく、
「すごく悪い状態なのに、びっくりするぐらい変化が早い!!」
と先生は驚いていたそうな。

あれから一年、二週間に一回の施術になった彼女は、頭痛もおさまって睡眠薬もほとんど飲まなくてよくなった

「また来るわー」
そういって、彼女はとても素敵な笑顔で帰っていく。

もちろんぼくだけの成果では無いのだけど、ぼくを信じてくださって症状が改善し 毎日を楽しんでおられる姿は、見ていてとても嬉しくなる
この笑顔が見れただけでも、ここで開業した甲斐があったなぁ幸せになった。

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150112:

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ぼくは岡島瑞徳の「最後の弟子」だ。

本来、「最後の弟子」という立場は、 「師匠のもっとも研究され醸成された技術を受け継いだ人」でもある。

河野智聖長谷川浄潤を初め、関西では福島功桝田隆英、 そして現在の師匠である関西CS研究会代表水野靖と、何人も優秀な弟子を育てた中で最後がぼくというのもなんとも申し訳ないと思うし、お前が岡島先生の晩年の技術の精華を受け継いだ弟子か??と問われると「はい、そうです。」と言える自信もない。

東京の本部道場には一度しか行ったことがなく、向こうの会員も東京の会員さんの多くが併習していた習い事で知り合った数人しか面識がない上に、ある方をこれまた成り行きで毎月操法することになったことから、むこうでは

関西にいる謎の秘蔵っ子

扱いをされていたらしいが、逆に言えば岡島先生の膝下で修行を積んだ人や水野先生のように毎月東京まで通い指導員伝授会などに参加してた方と比べると、月一回教えを受けただけの人間で岡島先生の弟子を名乗っていいのか??と言われてしまう立場ではある。

そんなぼくが「最後の弟子」を名乗れることができるのには理由があるのだ。

毎月行われる関西の一日講習会は朝からなんコマか連続して講座が行われる。最後には幹部とその候補生対象の「研修会」があり普通の講座にはまだ出せない岡島先生の研究中の理論や高等講座にあたる内容を教えてくれていた。

一般の人対象ではないので勿論、参加するには資格がいる。
一つは「研修生」という幹部候補生になること。(これになると雑用をする代わりに各講座の受講料が割引された。)
二つ目は一年に一度行われる段位審査で「上級」以上になること。
三つ目は岡島先生が許可した人(一応は遠方会員となってはいたけど、大阪在住の人も呼ばれていた。)
となっていて諸般の事情からぼくが研修会に出るには上級になるしかなく、2001年に初めて受けて中級合格、後一回受ければ参加資格を得られるというところで白血病になってしまい、結局ぼくが会に復帰し段位審査を受けることができたのは2005年の年明けのことだった。

この2005年は中心感覚研究会の崩壊へと続く激震が始まった年で、年明け早々、会は最初の存亡の危機さらされていた。

そう、前年の2004年、関西支部の忘年会が終わって一週間後の12月26日、会主催のツアーでスリランカに行かれた岡島先生一行があのスマトラ沖地震に被災し参加者の半分が亡くなられ、岡島先生自身も津波にのみ込まれて九死に一生を得たという事件が起きたのだ。

年が明けても行方不明者がまだ見つかっておらず関西の指導員の先生方もマスコミ対応や本部との連絡に追われ、1月の岡島先生の講座も代講になり本部の段位審査は中止になってしまう。
そんな中、関西では指導員の先生方の温情で段位審査を開いてくれた。(ほぼぼくの為だけだったらしい。)

審査の日になぜか40度近い高熱を出しガタガタ震えながら受けることになったのだが、何度も水野先生や友人と練習し続けたかいもあり無事に上級に合格、研修会参加資格を手に入れる。
(水野先生から後年、「お前は勘違いしてる。上級なはずがない。初段をやっても良かったが飛びすぎるから準段位にしたんだ。」と言われたが、ぼくは準段位の免状を持ってない。)

2月、スリランカはまだまだ落ち着かないものの、岡島先生はようやく活動を再開し月末の関西の講座にも復帰。
実はこの月には元々岡島先生の特別講座が開かれる予定で、本部では大きな会場を借りて盛大に行われる予定だったのが、震災の影響から取り止めになりこれまた関西だけの開催になってしまった。

関西では特別講座のある月は土曜日に特別講座、日曜日に一日講座と二日続くものの、毎回沢山の人が受講し中崎町の広い貸しスペースが一杯になるのが常だった。
だが、今回は特別講座も一日講座も参加者が少なく、講座終了後に心斎橋のメキシコ料理店のエルチャロで行われた岡島先生を囲んでの懇親会もなんとも寂しいものになり、そして、その少ない参加者も早々に帰ってしまい、店内は早い時間で岡島先生と水野先生、ぼくの三人だけになった。

この時にぼくは岡島先生に、
岡島先生の弟子と名乗るにはどうなったら良いですか??
と聞いてみた。
寂しそうに見える岡島先生になんとかここにも先生を尊敬している人間がいると分かってもらいたい、ほんの少しでもそれが先生の励ましになれば。そんなことを思っての質問だった。

岡島先生は少し笑いながら、
野中も研修会に出るんだからさ、俺の弟子って名乗っていいよ。」
とやさしく言ってくれた。
そう、この時にぼくは先生の弟子になったのだ

スリランカの事件後、諸々の事情から会は揺れ続け、本部での段位審査も研修会も指導員伝授会もなくなり、結局、中心感覚研究会が解散するまで、再開することはなかった。 しかし関西では研修会は岡島先生が入院される直前の8月まで開かれ、わずか2年8ヶ月と短い間だったが参加することができた。
ただ、段位審査はあの年の関西が最後になった

そしてそれ以降、研修会に新しく参加する人はなく
かくして、ぼくは岡島瑞徳の「最後の弟子」になったのだ。

140908:

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今度の10月で師匠の七回忌が来る。
師匠が入院した日の晩、夢で師匠と最後の会話をした

「お前さぁ、整体のことが本当に分かりたかったら、恋愛して結婚して子供育てなきゃだめだぜぇ!!

と。

「いやぁ」とか「がんばります!!」とか答えたぼくに、

「じゃ、またな!!」

と、手を振りながら去っていった。

それからほどなくして師匠の訃報を仲間からのメールで知った。
夜も遅くだったけどすぐに訃報を他の関係者に伝えて回った。

その中に師匠を批判する方がいた。

前から度々批判するのを聞いていたけど、
今言わなくてもいいじゃないか!!
と思いつつ、反論できない立場の自分が情けなくなった。

弟子のぼくが世間から治療家(整体では指導者)として認められる存在だったならば、
亡くなったその時に師匠が批判されるような「隙」を作ることもなかったのにと。

自分がどこに進むかの「覚悟」はこの時に決めた

そして七回忌が迫っている。
あれから身内や外にいる人から師匠への批判を何度か聞いた。
亡くなった師匠の高弟で、関西CS研究会の会長である今の師匠はそんな批判を聞かされたことがない。
やっぱりまだまだ聞かされるぼくに隙があるのだ。

去年開業したことでようやく師匠の歩いた後を追える、じっくりと研究できる場所ができた。

やることは一杯、有りすぎるぐらいにある。
毎日をギリギリで生きるぼくに時間と余裕が無い。
だから師匠と夢で交わした約束はたぶん果たせそうにない
師匠不幸だなと思う。

でも、
あの人をそだてあげた二人の師匠はスゴい。」
と世間が言うようなそんな存在になることで恩返しをしたい。
それで許してくれるだろうか??

5月1日、初めて患者さんの予約でいっぱいになりました。

ホームページを見て予約してくださった新患さんに始まり、いつもはばらつく常連の患者さんが連休前の駆け込みでタイミングよく重なって予約してくださった「たまたま」の結果なのですが。

その日の最後の患者さんは、開業したての頃、開院時間前の朝一番、まだ掃除も慣れなくてあたふたしてたときに突然飛び込みで来院されてグダグダの中を受けてくださった院の近くで美容院をされている美容師さん。

開業当初なかなか上手くいかなくてジタバタしてたそんなこんなをよく知っている方なので、珍しくバタバタしていたことを話すと、
「よかったねぇ!!」
と自分のことのように喜んで下さいました。

自分が辛くて来院して下さるのにいつも笑顔でニコニコして、こちらが色々と聞かなきゃいけないのに気がつくといつも聞き出されて励ましてもらったり元気づけてもらったり、

女性専門の美容院という絶対場違いなはずのところにお客様をマッサージしてほしいと呼んで下さったり・・・

この一年、本当にお世話になりました。

そしてぼくの周りにはこんな素敵な方ばかりが集まって下さって色んな形で助けていただきました。

資金繰りの相談から始まり、様々な工事やデザインを請け負って下さったり、わざわざ仕事の帰りに立ち寄って顔を見に来て下さったり、深夜まで相談にのって下さったTOBITOの皆さん。
心配だからと何度も飲みに連れ出してくださる近くで開業している整体の兄弟子。
治療院経営とはこういうものだとコツやアドバイスをしてくださる習い事の先輩の方々。
野中の力を貸してくれと言って再び雇ってくださったバイト先の所長と越えるべき壁であり同士でもある同僚の先輩、後輩。
会うたびに刺激をくれる学生時代の友人や、他の誰にも言えないことを聞いてくれて笑い飛ばしてくれる親友。
ぼくが臨床で困るであろうことを見越して講座をしてださり、なんだかんだと心配ばかりかけている水野先生と福島先生。
岡島の弟子という理由だけで腕も乏しい頃から操法を受け続けて下さっている習い事の師

そして色々なご縁で出会いぼくを信頼して施術をうけてくださった患者さんの皆さん。
一人一人の方が下さる笑顔はなにものにも変えがたいぼくの宝物です。

本当に本当に皆さん有難うございます。
まだまだ未熟者でご迷惑をおかけしますが、出会って下さった皆さんが笑顔で日々を過ごせるよう精進して参りますのでこれからもどうぞよろしくお願い致します。

大阪は阿倍野も桜が散り初夏の薫風が吹き始めた4月の最終土曜日の26日、「あすとの会」の竹村さんに嬉しいお誘いをいただいて、また介護の勉強会に参加させたいただきました。

テーマは

「認知症ケアの実際」

認知症対応型のグループホームやデイサービスで働いていらっしゃる現場の方からお話を聞くというものでした。

認知症患者さんへの対応について、ぼくに関して言えば一人に対しての施術時間が20分という短時間の制約がつく中、パターンや法則など定まったものなどなくその人の人柄にその日の身体状況、精神状態を加味して瞬時に判断し臨機応変にやっています。

そもそもこういった対応というものは同じ患者さんでも術者自身の性格などによっても変わるため理論として誰かに伝えようにも伝えようがなく、新人教育をする時にも同行した際に感覚で掴んでもらうしかないのです。
要は「経験と勘」

今回、認知症に関して専門の知識とノウハウを持っておられる方たちからお話を聞くことが出来て、そうやって自分がやってきたこと掴んだことの何が正解で何が間違いか改めて見直すことができました。

終わってみて思うことはどんなに理論を詰め込んでも人が人と対峙する以上、最終的には

               「心と心」

やっぱりこれしかないんだなと・・・

竹村さん、講師の皆さん、ありがとうございました。