はまな調息堂

はまな調息堂ウェブログ:日々の堂主

調息整体指導室/はまな調息堂の堂主が、
からだを整えるということや日々の活動について
考えたことを綴ります

2000年頃、2年連続で中心感覚研究会関西支部主催で行われた心道流空手道宇城憲治氏の講習会に参加したことがある。岡島瑞徳先生が雑誌「秘伝」で対談し交流が始まったことで実現した企画だ。

宇城氏も初めての一般向けの講習会だったらしく、最初は緊張されていたが氏の人を引き込む魅力的な人柄もあって大いに盛り上がり、興の乗った先生は弟子でもあり助手として参加されていた娘さんが驚くぐらいかなり多くの秘技、秘術を公開してくださった。

そんな中、幸運にも参加者の多くが文化系の方たちの中、ほぼ唯一の20代の武道経験者だったぼくは、必然的に実験台になりその技を肌で体験させていただくことができた。

「そこの君、ちょっと前に出てきて下さい。」

指名を受け何が始まるのか緊張しながらぼくが立ち上がると、氏はいくつかの不思議な技をぼくを台にしてみせて下さり、その後、

今、この方は体に気が通っていません。

と仰られ、気が通っていないとどうなるかを説明しだした。

説明をなんとなく聞きながしながら、ぼくはとにかく緊張を抜こうと誰でもするように少しゆっくり目に息を吐いて余分な力を抜いてみた。
別に特別なやり方をしたわけではないのだが(後年、俳優の榎木孝明氏が簡単な気を丹田に沈める方法というのをネットで観て、偶然、同じことをしたのだと分かった。)、その瞬間、氏は説明を止めて、

「あ、今、気が通りましたね。皆さん分かりますか??」

と仰られ、先程と同じ技を行ってぼくの反応が変わっていることを示し、それから空手の型である「三戦」を示演しながらそこで使われる「呼吸」をお腹の動きをもって見せてくださった。

「息吹」というのだろうか??特殊な呼吸法で息を吐き出すと宇城氏の水落が凹み、その凹んだ分、下腹が自然と膨らんでくる。

「これが武術の呼吸です!!」

と氏は仰った後、また色々と技をみせて下さったのだが、ぼくはこれと似たものを数ヶ月前の初等講座で岡島先生に見せていただいた事を思い出していた。

それが、調息整体の源流である野口整体に伝えられている「深息法」である。

「深息法」は元々は野口晴哉師の師である「人体ラジウム学会」の松本道別師の考案による呼吸法で、松本師によると「肺尖から下腹部まで隅々まで正気を充実させる呼吸法」なのだそうで、 岡島先生も野口師が

「整体指導者は気の集中力を高める行として、これを必ずこれをしなさいと言われていた3つの行法(深息法、数息観、気合術)の内の一つ。」

と紹介していたし、整体協会の機関誌である月刊全生で、あるコンサルタントの方が、

「操法は、初等の内容と深息法で事足りる。」

と野口師が仰っていたと書いておられた。
(いまいち効用が分からないが、とにかくすごいものらしいことは分かる。)

やり方は、

深息法
① 正座して姿勢を決め、唾液を溜める。
② 口から息を吸い、下腹を膨らませる。
③ 丹田が満ちたら、鼻から息を吸い、胸で息を吸いこむ。
④ 胸で吸い切ったら肩を上げ肺尖まで吸い上げる。
⑤ 肩を上げきったところで、その上がった胸が内部で落ちると同時に唾を飲み込む。
⑥ 胸と唾が下腹に落ちるのに合わせて「ウ~ム」と唱えて息を漏らし下腹に落す。
⑦ 「ウ~ム」の「ム」で落すのを止めて下腹を充実させたら、息をこらえる。
⑧ 適度な頃合で下腹を充実させたまま、鼻からゆっくりと細く息を吐く。


ヨガをやっていらっしゃる方ならお気づきかと思うが、前半部分が「完全呼吸法」とほぼ同じであることが分かる。ついでに簡易版であるとされる漏気法も記しておくと、

漏氣法
① 正座して息を下腹から胸まで吸い上げる。
② 吸い上げた息を「ウ~ム」と漏らして下腹に落とす。
③ 深息法の ⑦ ⑧と同じ。


と、深息法の後半部分になっている。

この漏気法、松本道別師の集大成である「霊学講座」にはなぜか記載がない。
ひょっとするとかなり古い日本に伝わる呼吸法で深息法の簡易版ではなく、松本師がヨガの完全呼吸法とこの漏気法を掛け合わせて深息法を作ったのではないかとぼくは考えている。

それはさておき、この深息法、この通りにやってみるとそれほど難しいものではない ・・・のだが、実はここに幾つかの条件がつく。
そしてこの条件を守らないと健康を害する危険性があり、また余り効果が見込めない

その条件とは

②で息を吸い込むときに、水落を固くしてはいけない。(むしろ凹んでいく。)
⑦で息を吐ききった際、「ム」のところで水落が凹んでいなければならない。

というもので、ここが宇城氏が三戦で見せて下さった呼吸とよく似ていると思った部分なのだが、水落を固くしない為には上半身が脱力していなければならないし、凹むようにしつつ下腹を充実させるには息んでしまっては絶対できない

岡島先生からは野口師は下腹を固めろとかではなく、とにかく、

脾腹(わき腹)を落せ

と仰っていたと成立するヒントを教えていただいたのだが、それでもこの条件を満たそうとすると、一気に難しくなるのだが、さらにもう一つ、水野先生がその昔、一宮氏という野口師のお弟子さんから「秘伝」(らしい、岡島先生からは聞いたことがない。)として聞いた、

一分以上かけて行う。

という条件までつくと、もう、とても難しいものになってしまう。

丹田を充実させる=腰椎3番に力が出る=決断力、行動力がつく

ということでもあるので、邪魔くさがりなぼくは、2年ほど前から暇をみては深息法を行するようにしているのだけど、やればやるほど迷路に迷い込んでしまった気分になってしまう、そして今一効果の実感がない??なかなか面白い呼吸法なのだ。

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半年前の長期予報では今年の夏は「スーパー酷暑」になると出ていたのだが、大阪は予報どおり連日の猛暑日になっている。
堂のある阿倍野区松崎町界隈も気温が高い上に湿度も高く息苦しい日々が続いている。
皆さん、くれぐれも熱中症や脱水症に注意していただきたいと思う。

以前、習い事の師の著作に

「これは極意である。」

と書かれている動きを教えていただいた。

この動作はほんの数動作。
流派によっては(もちろん全く同じ動作ではないが)入門して最初に習うものと位置付けているところもあるぐらいで、初学者でもちょっと稽古すればあっさり出来てしまうぐらい「簡単な動作」である。

しかし、道に達した方が「極意である」と表された動きがすぐにできるほど簡単なわけはなく、もちろんそこには何かがあってその何かが「極意」であり、

その何かを得ることが出来ないとその動きが出来たことにはならない

それを簡単な動きだと自分は出来ていると思ってしまったら、上に続く階段は閉ざされてしまう。

だから修行者は、先ずはその動きにある上に続く階段の入口をなんとしても探しださなければならず、さらに見つけたら見つけたで今度は膨大な時間を費やしてその階段を昇り詰める(そもそも終着点があるのかも分からない。)必要がある。

そこで初めて簡単な動作は「極意」と称されるものになるのだ。

今、関西CS研究会で行われている火曜日の調息ゼミでは、基礎編である初等講座を復習している。

「初等講座」は初等という言葉通り調息整体において「初めに習う技術群」であり、主に操法で使用する「処」の場所と意味、そして押さえ方を学習する。
もちろん基礎編なのでその「押さえ方」に使われる技術は「比較的簡単な技術」で構成されており 一回通しで受けてちょっと練習すればすぐに使えてしまうものになっている。

のだが、この初等講座に関して岡島先生は、

操法の9割は初等の技術で事足りる。

ということを仰っていた。
(実際、ぼくも普段の操法では初等講座で習う技術以上のものは滅多に使わない。)
また、野口晴哉師に住み込みで教えを受けた整体協会の古参の整体コンサルタントの方も、
操法は初等と深息法でいい

と晴哉師が仰っていたことを協会の機関誌である「月刊全生」で紹介されていた。

ここで考えてみよう。

人の体の在りようというものは個人によって違い千差万別であるし、それを調整するためにほとんどの流派は何年もの研鑽と多大で深遠な技術を習得することを術者に強いるのだが、 そんな身体の調整を野口整体と調息整体は初等だけで事足りると言っている。
なぜだろう??

そう、初等講座で習う「押さえ方の技術」は調息整体における基礎であると同時に、そこには「極意ともいうべき技術」が内包されている。当然、その極意を習得できて初めて上記の言葉が意味を為してくるのであり、初学者がちょっと習って練習した程度に適応される言葉ではない。

かくして、火曜日の調息ゼミでは入会したての会員さんと同じようにぼくたちも練習し、水野先生から入会したての会員さんはほめられ、調息整体指導者であるはずのぼくや古参の会員さんは、沢山のダメだしをもらっているという不思議な光景が広がることになったのだ。

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大阪は阿倍野区松崎町の周辺も漸く暖かくなりはじめほっとしているのだが、
4月13日で前骨髄球性型白血病で入院してから15年が経過した。
白い壁に囲まれた狭い病室で絶望と孤独に押し潰されそうになっていた当時、今の自分が想像できただろうか??
出会って下さった全ての方々にただただ感謝するしかない。

先日、患者さんとの会話の中でぼくがある言葉について否定的な意見を述べたのだけど、その理由をどうしても上手く説明できなかった。
患者さんの状態的にも野口整体の考え方としてもとても重要なことだったのでなんとか理解して欲しかったのだが、結局別の解釈をされてしまった。

せっかくなので、何が言いたかったのかをまとめてみた。

ぼくがその言葉を避けるのには意味がある。

あなたがその言葉を使っている限り、あなたがその状態から逃れることは出来ない。
だってその言葉を使うたびにあなたの潜在意識は、
その状態になった

特別な存在

であることを肯定し続けるのだから。

肯定し続ける限り、あなたの潜在意識はその状態になる免罪符を手に入れてしまう。
免罪符を手にしている限り、あなたは本質的な変化を起こさない
様々な理由をつけて変化を起こす出来事を拒絶する。
そして
拒絶した自分を肯定する。

あなたの顕在意識はその状態を望んでいないと思っているのに

あなたは別にその状態になったから特別な存在になったわけではない。
この世に生まれ落ちたその瞬間からあなたは特別な存在だったし、
今も変わらず特別な存在のままだ。

それは奇跡的なことなのだ
世の中のありとあらゆる存在に感謝しても全く足りないぐらいに。

そこに気がつかない限り、あなたはそこから抜け出すことはない。

だからボクはその言葉を避けるのだ。

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長い長い残暑も明け秋の空気が漂うようになってきた。
我が調息堂の近くには残念ながら秋祭りをするような神社がないのだが、珍しく今日は祭り囃子が聴こえている。我孫子筋を隔てた向こうにある阿倍野区役所でなにかイベントをやっているらしい。

「先生はすごい気を入れてくれる。」

バイト先の頚損の患者さんからは何年も前から言われてはいたものの、ろくにたいした修行もしていないぼくからすると実感が皆無で、そんな大層な???とずっと思っていたのだが、
先日、別の勘のいい患者さん2人からも同じ感想をいただいた。

特にそのうちの一人の方は、とある流派の「ハンドヒーリング」を身に付け日々実践されている謂わばプロの方である。

ハンドヒーリング

日本語では「手当て療法」、「手かざし療法」とか「触手療法」などと呼ばれている「手をかざして相手の状態の変化を促す」療法のことで、欧州のロイヤルタッチ、レイキ、中国気功の外気功をはじめ、

 日本では、レイキの源流である「臼井式霊気療法」、西式健康法の「西式触手療法」、「冨田流手当て療法」、「仁神術」などや、真光教や天理教などの宗教団体のものが有名だ。

かくいう調息整体やその源流である野口整体にも

愉気

という同様のものが伝わっている。

これは調息整体において、自働運動(野口整体では活元運動)を土台とするならば大黒柱というべき技術で、操法の全ての場面で使われている。
また、野口晴哉師も岡島先生も、操法は本来は

自働運動と愉気だけで事足りる

とまで言っていた大事な技法であり、昔々の元々は相当な金額を積んで習う秘伝の類いだった。

が、この秘伝、
まず講座で教えてもらえるのは、

相手より少し深い呼吸をし、なんとなく気になるところに手を当て、当てた手から息を吐く。そして、もういいなと思ったら、また別の気になるところに手を当てる。を繰り返す。

ということぐらいで、特別な修行を要する訳でもない習ったその瞬間から誰でも使えてしまう上に、現在は秘伝でもなく書籍も出ているから(わが関西CS研究会では)さらっと教えるし、やろうと思えば独習で身に付けることもできる。

一応、愉気をある程度やりこんだ人で整体の専門家を目指す人用に「愉気にある能力を持たせる訓練法」や「遠隔愉気の訓練法」もあるにはあるのだけど、それでさえ特別な儀式や修行を要する他の流派のそれと比べるとあまりに簡単なので、神秘性や有り難みが薄い

それぐらいお手軽なのだ。

そんな愉気で、しかも患者さんから第一印象が「頼り無い」と言われるぼくが行う愉気で、上述の評価をいただいてしまい、もうなにがどうなっているのか???になってしまった。

そこで当院で毎月一回行われている「古武術介護講座」の参加者の中にも別の流派のハンドヒーリングを実習されている方がいらっしゃるので、愉気の練習を行ってみることにした。

合掌行気という手に気を集める訓練を皆でしたあと、二人組になり5分程交代で愉気をしてもらい、どう感じたかを聞いてみた。すると二人の方から

「今まで受けたものより体の深いところに浸透して温かくなる
という感想をいただいた。
そしてこの感想で、ぼくが受けた評価の理由がなんとなく分かった気がした。

実は愉気は他の流派とは大きく違う点がある。
それは術者は、

「大量だったり高密度だったりするなにかのエネルギーを送り込んだり、相手の何かを動かしたり」

というイメージなどは全くしない

愉気はただただ気になるところに手を当て、そこで息をし、また・・・を繰り返すだけでそこにあるのはエネルギーの補給者と受給者という一方的な関係ではなく、
愉気でのそれは、

「術者の気に共鳴(整体では感応という)した受け手」

の関係であり、また共鳴という性質上、

受け手の気に共鳴した術者

の関係も成り立ち、結果、双方向の関係になる。

なので愉気をすると

「受け手だけでなく術者もまた気の流れが良くなり体が整う

ので、病人ほど積極的に他人に愉気をするとよい。と言われているし、第一、疲れない。(疲れるのならばやり方を間違えている。)

また、受け手の自身の気が動いて受け手自身を整えている
だから、術者の気を深く浸透させる必要も大量に送る必要もないし、そんなことをしなくても深いところで大量の気の移動が起こるのだ。

そう、やっぱりぼく自身がすごいわけでも何でもなかったのである。

今年の大阪は観測史上最高の猛暑という予報どおりの日々が続き、 一日、バイクで阪神地域を回っていると、夕方頃から頭痛が起きる程だった。
もちろん、ここ阿倍野区松崎町も例外ではなく、クーラーが効かないのか、かけているのに操法をしていると汗が首筋を伝ってくる。

野口整体の総本山、整体協会の会員に配られる月刊全生を、会員じゃない僕は開業当初からお金もないのにヤフオクで漁って集めてる。
会員ならば1冊300円ぐらいのものなのだが、それを1000円ぐらいで購入している。

この中でも平成6年はそこから数年間続く、昭和45年に行われた

潜在意識教育講座

の連載が始まる年なので、欲しかったのだが全く出てこず、結局、美章園で開業しておられる兄弟子が所蔵しているとのことで、ご好意でコピーさせていただいて数ヵ月前に手に入れることができた。

潜在意識教育

野口整体の創始者、野口晴哉師という人は操法の技術も去ることながら、 相手の潜在意識をとらえ転換し自在に操ることを得意としていた。

もともと武術や修験の心法である「不動金縛りの術」だの、「足止めの術」だの、催眠の応用技術を暴漢相手に自在にできた人でもあるので、一般の人の心を操るぐらい朝飯前のことだったのだろうが、

その手法があまりに神がかっていた為に、操法を受けた人もなんで良くなったのか分からず、「狐に化かされたようだ」ということから、

狐の野口

という異名がついたほどで、現代催眠の偉人、ミルトン・エリクソンとしばしば比較されたりもする。

この講座はその神がかった潜在意識を変える手法の一端の基礎を学ぶものとして行われたもので、人の心理とはどういうものかだけでなく、それをどう変換し体を良くする方に向けるか??など、野口師独自の研究の成果が書かれている。

潜在意識を使う手法は、受け手の無意識に働きかけて、今流行りの「引き寄せの法則」のような「受け手の行動を阻害する暗示の殻を壊して自由になるのを促す」為にあるのだが、使い方を変えれば、暗示によって受け手の潜在意識を縛って信頼感を抱かせ、リピーターにしてしまう集客アップ法」として使うこともできる手法でもある。

恐らく現代のそっち系心理セミナーでは、専門家以外が学ぶにはかなりなお金を払い、かつ相当上に行かないと教えてくれないようなことを、半世紀近く前に普通に教えていたのには驚かされるのだが、

彼はまた、この手法を含めた整体操法を、

お金儲けのために使ってはならない

とも解いていた。

なぜか??

整体操法は「受け手の生命に対して礼を尽くしその生命の力を引き出すもの」であり、「病気や異常は指導者(=術者)が治すのではなく、受け手自身の力で勝手に治っていくもの」であるとする。

だから、指導者は全力をもって無心に謙虚に操法を行い、その結果、受ける人が増えていくのは良いが、利潤を追求するために潜在意識に働きかけて受け手を縛り、リピーターにするようなことは、受け手の生命を冒涜する行為として戒められているのだ。

これは、野口系の整体操法の技術においての話であり、他の療法はまた別の考え方があって良いとは思う。ただ野口系の整体の技術を使ってこの一点を忘れて欲に走ると、気を交流させて自分の深い部分で受け手の深い部分とを感応させるという技術の特性上、揺り戻しが来てお互いに大きな損害を被ってしまう

生命に対して礼を尽くし、謙虚に無心に操法に取り組む。

野口整体の分派である調息整体を修する指導者として、 この一点は絶対に忘れてはならないし、ブレてもいけないのだ。