はまな調息堂

はまな調息堂ウェブログ:日々の堂主

調息整体指導室/はまな調息堂の堂主が、
からだを整えるということや日々の活動について
考えたことを綴ります

とうとうこの5月から平成が終わりを告げ令和が始まり二週間が過ぎ、 周囲では改元時の喧騒が落ち着き日常を取り戻している。

ぼくは新しい御代も、出会ってくださったご縁に感謝しながら
ここ大阪阿倍野区松崎町で調息整体を通して皆様の幸せ作りの
お手伝いをしていきたい。
これからもどうぞ宜しくお願いいたします。

これをしたところで、何も起こりません。」

枚岡大社の神道行法研修会で道彦をしていただいた
山根眞人禰宜の言葉だ。

二条の滝での禊行と拝殿での鎮魂行の研修を終えたあと参加者は 社務所の大広間に移り、山根禰宜と助彦を勤めて下さった権禰宜を 囲んでの直会になった。

直会ではお菓子とお茶、お酒も出て、終始和やかな雰囲気が流れ、 研修中は厳しい顔をされていた山根禰宜もほんのり赤い笑顔で参加者の 質問に答えられていた。

「神道は八百万の神々を信仰の対象にしています。
ですので、当神社はどのような宗派の方の参拝でも歓迎いたします。」

といった事を語られた後、

「今日、学んでいただいた「行」ですが、これをしたところで、 何も起こりません。

と仰られた。

穏やかだった直会がざわついた。
数人の古参の参加者は「そんなことないですよー!!」と声をあげ、 ある参加者は「今日受けて、~なことが起きました!!」と主張した。

その言葉を受けて山根禰宜はやはり笑顔を浮かべながら

「そりゃ、起こる人には起こることもあるんでしょうけどね、
でも、期待して行うことではないんです。」

じゃ、何のためにやり続けるかと??、神道には「言挙げせず」と 言って言葉での教えがありません。ですが、教えがないわけではない。 それを言葉にできないわけではないんですが・・・

皆さんが感じて欲しいんですよ。」

「なんとなく分かるでしょ??」

と仰った。
その後、続けて山根禰宜は説明をして下さろうとしたのだが、
古参の女性の反論が始まって有耶無耶になってしまい、残念ながら 聞くことができなかった。

これをしたところで、何も起こらない。」

この発言の真意を聞くことはできなかったものの、ぼくは直感的に 大切な「行の本質」を聞いたような気がした。

滝にうたれるなどの禊行、
気を自身に集める石上流鎮魂行

共に手元にある古神道研究の書籍には効果、効能が書いてある。
しかし、例えばクンダリーニヨガや周天気功のなどの行法と比較すると 大したことはないし、(石上流に至っては本田流などの他の鎮魂行と 比べてもがっかりする)両者のような動作に理論的な根拠もない。

だが、古神道に属する派には他にもあるのかもしれないが、神社神道に おいて「行」と呼ばれるものはこの二つしかない
(と山根禰宜は仰っていた。)

またネットで調べてみると、数年前まで石上流鎮魂法は神職さんにしか 伝えられず、さらに昔は奈良は天理の石上神宮(伊勢、出雲に並ぶ 最古の神宮)の秘伝の行だったらしい。

そんな大事な行の効能が大したことがないわけはない。
だが、山根禰宜は「何も起らない」といい、「期待するな」とも仰った。

ここでぼくは曹洞宗の禅語である「只管打坐(しかんたざ)」という言葉を 思い出した。習い事の師に教えていただいたのだが、意味は

ただひたすらに坐る

詳しい意味を調べてみると、

何か他に目的がありそれを達成する手段として坐禅をするのではなく、坐禅をする姿そのものが「仏の姿」であり、悟りの姿なのだから、ただ無心に座りなさい。

なのだそうだ。

同じように、この二つの行が教えようとしている「なにか」を得るには 効能に期待するなどの邪念を廃してただ無心に取り組まねばならない。 と山根禰宜は仰りたかったのではないだろうか??

ただ無心で行を行う。」

行を行う上での基本であり極意である
とぼくは思った。