2017年08月07日:
簡単なこと、難しいこと
category: からだをととのえる
半年前の長期予報では今年の夏は「スーパー酷暑」になると出ていたのだが、大阪は予報どおり連日の猛暑日になっている。
堂のある阿倍野区松崎町界隈も気温が高い上に湿度も高く息苦しい日々が続いている。
皆さん、くれぐれも熱中症や脱水症に注意していただきたいと思う。
以前、習い事の師の著作に
「これは極意である。」
と書かれている動きを教えていただいた。
この動作はほんの数動作。
流派によっては(もちろん全く同じ動作ではないが)入門して最初に習うものと位置付けているところもあるぐらいで、初学者でもちょっと稽古すればあっさり出来てしまうぐらい「簡単な動作」である。
しかし、道に達した方が「極意である」と表された動きがすぐにできるほど簡単なわけはなく、もちろんそこには何かがあってその何かが「極意」であり、
その何かを得ることが出来ないとその動きが出来たことにはならない。
それを簡単な動きだと自分は出来ていると思ってしまったら、上に続く階段は閉ざされてしまう。
だから修行者は、先ずはその動きにある上に続く階段の入口をなんとしても探しださなければならず、さらに見つけたら見つけたで今度は膨大な時間を費やしてその階段を昇り詰める(そもそも終着点があるのかも分からない。)必要がある。
そこで初めて簡単な動作は「極意」と称されるものになるのだ。
今、関西CS研究会で行われている火曜日の調息ゼミでは、基礎編である初等講座を復習している。
「初等講座」は初等という言葉通り調息整体において「初めに習う技術群」であり、主に操法で使用する「処」の場所と意味、そして押さえ方を学習する。
もちろん基礎編なのでその「押さえ方」に使われる技術は「比較的簡単な技術」で構成されており
一回通しで受けてちょっと練習すればすぐに使えてしまうものになっている。
のだが、この初等講座に関して岡島先生は、
「操法の9割は初等の技術で事足りる。」
ということを仰っていた。
(実際、ぼくも普段の操法では初等講座で習う技術以上のものは滅多に使わない。)
また、野口晴哉師に住み込みで教えを受けた整体協会の古参の整体コンサルタントの方も、
「操法は初等と深息法でいい」
と晴哉師が仰っていたことを協会の機関誌である「月刊全生」で紹介されていた。
ここで考えてみよう。
人の体の在りようというものは個人によって違い千差万別であるし、それを調整するためにほとんどの流派は何年もの研鑽と多大で深遠な技術を習得することを術者に強いるのだが、
そんな身体の調整を野口整体と調息整体は初等だけで事足りると言っている。
なぜだろう??
そう、初等講座で習う「押さえ方の技術」は調息整体における基礎であると同時に、そこには「極意ともいうべき技術」が内包されている。当然、その極意を習得できて初めて上記の言葉が意味を為してくるのであり、初学者がちょっと習って練習した程度に適応される言葉ではない。
かくして、火曜日の調息ゼミでは入会したての会員さんと同じようにぼくたちも練習し、水野先生から入会したての会員さんはほめられ、調息整体指導者であるはずのぼくや古参の会員さんは、沢山のダメだしをもらっているという不思議な光景が広がることになったのだ。